桐生選手の100m9秒台記録を取り巻く報道から感じたこと

陸上競技100m走の桐生選手が日本人で初めて100m9秒台を記録したニュースが列島を駆け巡りました。これだけ大きく騒ぐのだから、きっと素晴らしい偉業なのだと思う反面、世界にはこれまで124名の“9秒記録者”がいて、最も多く9秒台を出したアサファ・パウエル選手などは97回、上位10位までの選手で500回ちかい9秒台記録が出ていると聞くと、複雑な気持ちになります。その点は記録を出した桐生選手自身も分かっているのでしょう。“これでやっとスタート台につけた”という旨の発言をしているのは本心からだと思いますが、メディアの“これでオリンピックのメダルも夢ではない”的な報道が溢れることで、彼を取り巻く周りが“やれメダル”と騒ぎだしてくると、本人にも無駄なプレッシャーを与え、人によっては道を誤ることがあっても不思議ではありません。

私は特にアスリートやスポーツ選手については、こうした“持ち上げ記事”は慎むべきだと思いますし、それでも記事にするときには持ち上げた分、冷静な分析も並立させるようにしなければならないと思うのですが、桐生選手の報道でも、前述のような冷静分析などはありませんでした。

子供の可能性すら剥奪するような軽率な報道番組

ところが、中にはこれは一種の暴力にあたるかもしれないと思うような“番組”もあります。10歳前後のスポーツに長けた子供達を“凄い凄い。将来の金メダリスト”と言って紹介するようなプログラムです。小さいうちからご両親などから本格的に教わっているから、そうでない周りの選手に比べて格段に上達しているのは当然です。しかし、それと将来の可能性とは全く別のものです。そんな冷静な分析をすることもせずに、取材に押しかけてしまうと、まだ物事の判断力に欠けるような子供達に間違った考えやプレッシャーを植え付けてしまいますし、周りの大人も特別視することになってしまいます。


これらの事は一言で言って報道する側の思慮の浅さや、物事に冷静な分析やバランス感が欠如していることであり、またその情報に接する側の受け取り方の常識や判断に問題があると言えます。一見とんでもないような事象ですが、実社会を見るとこれと同じようなことがあまりに多く見られます。

 現在の社会に普通に見られる“人に対する傲慢”と“管理職の能力不足”

例えば一般の会社などでも管理職が個々の社員の能力や日常の業務を把握して、その能力を活かす努力をしているのは、ごく一握りに過ぎず、多くは自分の立場を守る為に四苦八苦しているのが実情です。また、その仕事の本質や環境を精査する根気も持ち合わせていない人は、単に良い時には褒め、悪い時には貶すだけなので、畢竟は自分の力があると信じて、それを無駄に誇示するようになります。優秀な人材の可能性を潰しても、それすら気が付かなくなる。現状の社会ではそんな事例で溢れかえっています。


それは管理職が自らに与えられている者を“地位”、或いは“身分”と考えていることに他なりません。そこから生じる“人に対する傲慢”さは決して管理職がその能力を上げる事には繋がりません。その単純で、かつての日本人が決して犯したことのない過ちの道を、今では普通に、むしろ積極的に選んで進んでいるように思えます。

 人の上に立つと言う事は、人を下から支える事

“実るほど 頭の垂れる 稲穂かな”と言う川柳があります。いつから日本の管理職は自らの責務が部下を育て、成果を上げる為の敷石と言う考えから、自らの身分を守る為の道具と考えるようになったのでしょうか。日本社会が四半世紀を越えてもなおデフレから抜け出すことができず、簡単な社会改革すら実行することもできない多くの理由の中には、これも含まれると思われます。
先の桐生選手は、これらの“雑音”には惑わされず今後とも記録をのばして行かれると期待します。しかし人の可能性を軽々に判断するという、この構図は変わるべくもありません。そしてこれが戦後日本が努力の果てに作り上げた社会体制であるならば、それは改めなければなりません。

上野動物園で初めてパンダが生まれたという報道が全国を駆け抜けました。和歌山のアドヴェンチャーワールドではもう15頭の子供が生まれています。“上野動物園で初めてパンダの赤ちゃんが産まれた”とするなら“和歌山のアドベンチャーワールドでは15頭の赤ちゃんが産まれていますが、上野動物園でも初めて初めての赤ちゃんが産まれました”と言う見識は持ち合わせたいものです。

 

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