長期休暇から日本の働き方と、個々の生き方を改革しよう

日本の“有給休暇”を英語にするとホリデイなのかバケーションなのか。どちらも“休み”に過ぎないと考える日本人の感覚では大同小異のように感じますが、働き方改革が社会改革の大きなテーマ化となっている今の日本では、大変重要なポイントとなってきています。


つまり、その国の“休み”に対する考え方を知る事が、その国の経済活動を知る為には極めて有意義であるということです。例えばヨーロッパでは基本的に残業はありません。しかもバケーションとして夏には2~3週間の休みがあり、且つ土曜日は半ドン(仕事は昼まで)、日曜は休みというところもあります。これだけの休みを消化しながら、経済や国民生活、文化意識は日本とそうは変わらない、文化意識などに関すれば日本のサラリーマンには及びもつかないとなれば、本当に日本の経済レベルって高いのかと考えるのが普通の感覚です。“休み”について考えてみようと思います。

“休み取得”を威嚇することで、自らの優位を確認する企業の管理職

通常、holidayとは宗教的な休暇のことを言います。所謂Holy(神聖を意味する)なdayで、日本の祝日はこちらにあたります。比べてvacationはVacuum(真空)な時のことで、仕事時間が空になるイメージの言葉ですので、日本では年末年始休暇とかお盆休みなどになるでしょうか。先程、日本人はホリデイもバケーションも休みと感じると言いましたが、そう感じるのはその長さにもあります。日本では、長い“空”が前提のバケーションのはずの年末年始やお盆休みでも、せいぜい4~6日程度ですから、週休2日と比べてもあまり変わりません。いや年中行事や家族サービスに絡むこの時期はむしろ忙しく、スケジュールも押しているのを考えると、家族向けの仕事と取れなくもありません。実に効率の悪い休みのとり方です。しかも本来“権利”である有給休暇など有名無実化されていて、ほとんどの職場ではそれがとれない“雰囲気”が作られていて、得てして企業の管理職というのは、有給休暇の申請者がいたら二度と申請などする気にならないくらいの威圧を与え“会社と労働者のどちらが偉いか”その身に叩き込ませることで、自分の力を誇示する。そんな威圧的な環境を作るのが良い管理職だと考えている節があります。日本の社会はそんな環境でありながら、欧米に比べて取得休暇日数は変わりません。これはいったいどう理解できるのでしょうか。

企業側が意識的に作り上げた休日未消化の環境と、学生的発想から抜け出せない労働者

ホリディについても同様で、“完全週休2日”を謳っている企業がほとんどですが、そもそもそれが守られているかは問題視されません。職場に配属されても、その部署の人員が不足していたり、その体制だけでピークシーズンをを迎えなければならない環境下では、仕事のバイオリズムに関係なく休みを設定しても、日など返上しなければならないわけで、それは先の有給休暇と同様 “休みの制度があっても、それがとれるかどうかは関係はない”というのが実態です。
企業が今の時代になってからでも、このような環境を維持しているには日本の企業のほとんどが中小企業であるということがあります。経営環境の圧迫している中小企業は社員を隷属させる環境程良いものはありませんが、これが大企業にも及べば話は別です。先般博報堂がやり玉に挙がったのはそんな理由もあるでしょう。


しかし、労働者側にも問題はあります。今の時代に至っても会社の目だけを異常に気にして隷属することを選択し、自らのスキルアップを目指さなければ、そのような扱いになることは明白ですが、それでも会社に“好かれるような”行動をとっていれば、きっと良きに計らってくれると言う考えに埋没することです。これは先生の気に入られればきっと人より特別な扱いをしてくれると期待する学生的発想に他なりません。

働き方改革では分かり難い本質。個人の“生き方”改革こそが本陣である

“企業側が日本人の勤勉性を利用して、過剰な労働環境を強制している”と取られがちです。その意見にも一理ありますが、当然労働者側が仕事を選択できるわけですから、これからは何故そうなったかと言うのではなく、これからはどう生きて行くべきかと言う“生き方”を問うことが必要となってくるでしょう。しかし、この“生き方”と言うのが簡単ではありません。

冒頭に欧米との労働環境の違いをご紹介しました。基本的な差異はまず、欧米では仕事が同じならば給与も同じという環境が整っていることがあります。オーストラリアでは、パートも正社員も仕事が同じであれば給与は同じです。つまり企業側が、個々の生産性のあがるような環境を整備しているのです。だからここでは“人”ではなく“仕事”が基準です。ここは日本ではなかなか反映されません。正社員は、折角手に入れた正社員と言う“身分”を守りたいのでしょう。なんらかの理由をつけて正社員の優位性を強調しますが、畢竟は自身の生産性が低い事を意味しています。しかし、戦後、規格大量生産社会を築く為に、そうした環境を半ば“餌”にしてきた面は否めず、この改革には世代を跨ぐ必要があるのかも知れません。


しかし、もう日本の経済力はその真の姿を見透かされています。“経営者の経営能力の欠如”は大企業のそれに伴って日本経済の根幹を揺さぶっています。また今では、政府も社会も、少子高齢化や年金問題から待機児童問題などの生活直結問題から、あらゆる国際問題にしても、自分達だけでは何も解決する能力のないことを露呈しています。その環境の中で、いつまでも日本式経営に拘っていては先は見えてしまいます。

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