世の中では物事を3つにまとめるのが好きなようで、“3つの○○”とか“原因は3つ考えられる”などというのをよく聞きます。2つではまとめ過ぎだし、4つではまとめられていないとでも感じるのかもしれません。具体的には以前の例だとブルーカラーは3Kで“きつい”、“汚い”、“危険”だと言いましたし、もてる男の3高と言うのは“高学歴”、“高収入”、“高身長”と言うのもありました。同じKでも沖縄の3Kは“観光”、“基地”、“公共事業”となれば、こちらはあまり笑える話ではありません。この傾向は外国でも同じで、先のブルーカラーなどは3Dと表され“Dirty”,“Dangerous”,“Demeaning”とまとめています。
どのようにも変化が可能な高齢者の3K
これらの特色は比較的短期で概念が変わってきたことでしたが、日本ではデフレが長期化するに連れて固定化されているようにも感じます。だいたい、このように3つにまとめると何となく韻を踏んでいるようでユニークに感じるのですが、その中身を見るととても笑える内容ではないものが多いのも事実です。
現在では高齢者の3Kと言うのがあります。これは「経済」「健康」「孤独」と言われ、先の2つでなるほどと感じさせて3つ目で落とす感じがあります。これに対して若者は3Yと言われ「欲ない」「夢ない」「やる気ない」世代なのだそうです。
まず高齢者についてですが、この3Kは当たっているように感じます。「経済」、高齢者のほとんどが大変な資産を持っていると言われますが、この点はちょっと俯瞰で見てみると例外が大変多いのですが、しかし、異常なまでの優遇措置をされている現実や、今後、高齢者が日本社会で需要者でありながら、投資者でもあり、且つ生産者になることを考えればあながち間違いとは言えません。「健康」も同様です。医療技術の向上や異常なまでの健康保険制度の優遇、食生活の充実など、恵まれすぎるとも言われる環境下でこれも確立された特徴となっています。
しかし「孤独」、これも的を射てると思います。原因は家族制度の希薄化になるでしょう。高齢になるとわが子や孫の存在が極めて重要になってきます。しかし親と離れてくらす子供は親を疎んじますし、孫を親の元に連れて行くなどと言うのは期待すべくもありません。親が退職金で家をリフォームして、子供や孫が泊まりに来た時用に部屋を増築する話はよく聞きますが、“開かずの間”になってしまうと言うのはむしろ悲劇に近いでしょう。
深刻なのは現実を知る若者層の3Yの絶望感
高齢者の3Kについては「孤独」を「家族」とするのが良いと思う一方、反対のご意見もあり、高齢者はむしろ「孤独に浸かる」ほうが良いのだと言われる方も少なくありません。家族や友人などに捕らわれる事なく、自由に「経済」「健康」を享受して好き勝手に暮らすのが一番だと言うのですが、そうだとすると「孤独」ではなく「好奇心」にでもなるのでしょう。しかし若者の3Yになるとこれは深刻です。よくニュースなどで“最近の若者は○○離れが激しい”と言われています。私はこのようなフレーズを聞くとかなり違和感を感じます。まるで若者が自らの意志で消費や希望というものから逃避しているような印象を受ける表現だからです。
「欲ない」「夢ない」「やる気ない」とすると幾つもあるように聞こえますが、この3つに共通する原因は「社会に対する絶望感」に他なりません。その原因は”先行きの不透明さ”と”貧困”です。若者の場合はやはり親の世代がどれだけ財政的に安定しているかがその精神的な影響の直結するでしょう。しかしこの場合の貧困とは、財政的な貧困だけではありません。”希望に対する貧困”であり、”情熱に対する貧困”であり”閉塞した社会に対する貧困”なのです。それは若者の情報に対する接し方からも分かります。これまでの世代がなんとなく普通であったように感じるのは、まだ情報の変質が起きていなかった世代だからかも知れません。現代の若者は、その気になれば以前と比べて比較にならないくらい質と量の情報に接することができます。そこから浮かび上がる現代の日本社会の現実は若者をして先の希望をなくすほどの事実を突きつけます。国の未来を築く国会では訳の分からないような低いレベルの議論(?)に終始しますし、それを伝えるメディアに至っては存在価値すら見出せません。社会も半世紀を経て十重二十重と築き上げられてきた官僚と既得権益者だけを守る仕組みに縛られ、若者が夢を実現する環境はありません。教育も、行政も、言論も、そして経済も。生まれてきて常に貧困やデフレに晒されてきた若者世代が、夢や欲など持てるはずもありません。利子もつかない銀行にお金をむしり取られ高い税金を負担し続けなければならない現状を理解しているからこそ、若者は3Yなのです。
現実的に3Y問題を解消するには、今の社会体制のスクラップ&ビルドしか方法がない?
少し前、日本は子供から若者大国でした。世の中の消費は服飾雑貨からスポーツ、車に至るまで全て若者の好みを中心に構成されていましたし、施設にもこれが反映されていました。街の公園は例外なく“児童公園”でしたし、どこにでも“お子様ランチ”がありました。レジャー施設と言うとやはり若者が喜ぶものしか作られません。義務教育や高大学は雨後の筍ごとく増えました。テレビ番組や映画も収益を上げる為にマンガ祭りやアイドルタレントの闊歩するものに集中。大人が堪能できるようなものが作られる気配は今でもありません。しかし、それでは日本は若者文化大国かと言えば全く違います。つまりは戦後日本は“団塊の世代”が通り過ぎるのに合わせて変質していたに過ぎず、それ以外の世代は無視されてきました
そして今また、かつての団塊の世代の最終段階である高齢者層が過剰に優遇される社会となり、人口が少なく資産も持てる要因が少ない若者層は無視されています。今の政治家や官僚、行政、経済にとっては若者の未来など自分には関係のないものなのです。
そんな若者層が希望を持てる社会にするにはどうすればよいのでしょうか。逆説的ではありますが、社会体制の正常化に他なりません。つまり今の社会体制のスクラップ&ビルドしか残ってはいないでしょう。
若者に必要なのは、自分の時代は自分達で築く心構え
今、就職しても“何か違う”と感じている若者が多いと考えます。それは明らかに時代のクレバスに面しているからだと思います。そもそも中小企業で締められている日本の企業文化は、そのレーゾンデートルの崩壊によって崩れて行きます。しかし崩れるにはそれなりの前兆があり、彼らはそれに面しているのでしょう。
このままだと、日本社会にはしばらくの間、明るい未来は訪れないでしょうし、現在社会の中枢にある方々がその問題を解消することはなかなか困難ではないでしょうか。だとしたら、“静かな崩壊”の前に“道を外れる勇気”を持つのが、これからの若者の生き方のひとつになることは避けられないことになるでしょう。