日本の田園風景の美しさと言うのは格別で、世界を巡っても同様の風景にはなかなか出会わないものです。それもそのはずで、日本の自然の風景のほとんどは田圃1枚、村中の銀杏の木1本と言えども、地元の農家の方々が代々に亘って植え、育て、手を加えていった“作品”だと言えます。その作品はやはり“田舎造り”と呼ばれる大きく美しい家が伴って完成されます。美しく整った瓦屋根を見るにつけ日本の農業の力強さを感じざるを得ません。
しかし、地元の建築関係者や工務店の方とお話をしていると、意外なことを言われます。“いやあ、農家で大きな家を建て替えるのは、なかなか専業の規模になると難しい。今建て替えができるのは、大体は兼業農家です”と言う事なのですが、ちょっと聞くだけでは理解し難いのですし、全てがそうだと言えるわけではないのは当然ですが、それでも詳しく伺うと、日本の農業行政の問題点が浮かび上がってきます。
現代日本の特権階級“兼業農家+公務員”はなぜ必要か
何故“兼業”なのか。これは正確に言うと“兼業農家であり、公務員でもある”ケースについて言っている場合が多いと言えます。今の日本では公務員の優遇、安定は突出していますので、安心して働く事ができる環境ですし、また実家が兼業農家であれば、様々な状況下で結構豊富に“助成金”が転がってきます。両方を足すと生涯でも使いきれないほどの収入が手に入ることになるのです。もしそんなものがあるとしたら現代の特権階級、既得権益者となるのでしょう。
思い出すのは1993年のウルグアイラウンドの時です。この時農産物、特に米の輸入禁止が関税措置による輸入制限に代わりました。そのため農林族が“一粒たりとも米を輸入しない”としていたのを、700%の関税と最低限輸入に換えた時、6兆円の農業対策費が予算化され、400万人くらいいた農家に“撒かれ”ました。一軒あたり150万円の何の支給理由のない臨時お小遣いです。このような無駄金が何故必要かは、日本の今の体質が如実に表しています。一言で言えば“票田”です。それも本人すら自分が票田になっていることに気づかない形のものです。つまりこれほど恵まれた環境にあるのなら、政権が代わって何等かマイナスが起きるよりも、今のままで維持したいと考えることを悪用するやり方です。しかも巧妙なのは、当時農家は400万人いて専業;兼業は3対7で兼業農家が一方的な多数となります。こうしたお気軽兼業農家を増やす事で票をコントロールできると考えるのです。でも票田と言えば政治家ですし、細かな農業行政には直接関わっていませんから、何かを忖度して行動する“人々”がいるのでしょうか。
農家の、コメに関する“嘘”からの脱却から始めよう
“日本の土地は諸外国に比べて農業に向いていない”、“米(稲作)には88の手間がかかる”。農林水産省は予てからそんな話を作ってきました。しかしそんなことはまったくの嘘です。日本の風土は米作りに最適です。しかも米作りは手間がかからないのでやり易いのは常識です。しかし嘘を押し通すことで、食料自給率を価格ベースからカロリーベースで判断するなどと言うような、屁理屈を言わなければ辻褄が合わなくなってしまうのです。 これまでの過程を見直せば、日本の農業をかき回し、破壊してきた張本人はだれなのかは火を見るより明らかな状態となってくるのです。これまで、補助金や助成金名目で農家、特に公務員プラス兼業農家を過剰に、と言うより異常に優遇する政策を続けてきましたが、このままその政策が続けばその先には何が来るでしょうか。
100年前に農業をベースに国を振興させてきたアルゼンチンは経済の悪化が深刻化してからも、無駄な農業政策を継続し続けた為にその経済は崩壊し、未だに再生の糸口も見えていません。それは農業がどうのというより、そのような政治、行政機構に陥った組織的不幸が関わっています。日本の農業がその生産力や影響力の欠如からアルゼンチン化が進んだとなれば(そうなる可能性が高いのですが)、日本の農業を自省の安定の為だけに私物化してしまった農林水産省に全ての責任があることになると言われても仕方がないでしょう。そのような“無責任”を国民は看過してはいけないのでしょうが、相手は霞が関の奥にいる官僚ですから、一般庶民にはどうしようもないことになるのでしょう。「政治なんて、誰がやっても同じ」などと穿ったことを言う前に、私達の意志を反映するには政治家を選ぶ方法しかないことも自覚すべきでしょう。