かつて社会評論家の大宅壮一氏は「テレビというメディアは非常に低俗で、こんなものばかり見ていると人間の思考力や想像力を低下させてしまう」と言いました。いわゆる「一億総白痴化」です。1957年の事で、この時点ではまだNHKを始め数社しか放送局がなかった時代ですから、その見識は卓越していました。そんな57年のベストセラーは原田康子の“挽歌”であり、深沢七郎の“楢山節考”であり、谷崎潤一郎の“鍵”であるのですから、大宅氏の声は確実に国民に届いていたのだと思います。(余談ですが”挽歌”は今読んでも繊細で印象深い作品です)
文化の供給者としての映画館文化の衰え
しかし、その後のテレビは一直線で白痴化はしませんでした。確かにそれまでに比べて文化レベルを下げはしましたが同時に視聴者の希望を反映して、それまで体験できないことがブラウン管(テレビのことをこう表していましたが)を通して可能になったことで、視野も広がりましたし、家庭で気軽に演劇や芸能を堪能できるようになったことも確かです。私達は社会生活の中で、望めば文化や教養を映画や演劇などから享受することができますが、こうしたものは自然に手に入れることができないものもあります。ある程度のクオリティを社会側が提供するのは義務であり、またそれを要望するのは消費者の権利でもあるかも知れません。
その意味では現代はその権利が受け難い時代になりました。世の中高齢化社会で時間にもお金にも、人生経験にも不自由しない高齢者の方はたくさんおられますが、テレビでも映画、演劇でもろくなものはないと言う声を頻繁に聞きます。それは質のことを言っているのではなく、自分達の年代の感性に合わないことを意味しています。分かり易い例を挙げると映画館がそれにあたります。今は地方でもかつての“地元の映画館”が本当に少なくなりました。特に地方の映画館は“映画文化の発信者”として、多くの館主は可能な限り良い作品を選んでいて、それを誇りにしていたものです。しかし現在ではいわゆるシネコンが市場を席巻していて、映画文化の盛衰はそのクオリティに関心のない人たちが数字作りだけをしているように思えてなりません。
市場の最適化に欠けたマーケッティングの跋扈
その証左としてはマーケティング不足にあります。配給会社が人口の少ない若い層に絞った同じような作品を作ってくるだから仕方がありませんが、それでも外国映画には様々なジャンルがあります。なかでもクオリティが高く、海外の市場でヒットしている映画でも多くの映画館では上映せず、毎回決められた劇場だけでの上映となります。以前聞いたのは、映画のジャンルを幾つかに分け、それを上映する劇場を決めて売上げ予測が立ちやすくするのだそうですが、そうなるとクオリティの高い映画が来にくい劇場に足を運ぶ地方の消費者は、良い映画を観に行くのに何時間もかける必要が出てきます。また、偶に良い映画が来ても、すぐに夜の部に移されて19時や20時半からしか観れなくなってしまいます。
若い男女が恋に落ち、どちらかが不治の病を患い…とか、人気若手俳優がチンピラ抗争で殴り合う。そうした映画自体を否定する気は毛頭ありませんが、バランスをとってもらわなければ、これから先、映画を嗜む世代が徐々に減じて行くことになります。また配給会社も日本では上映館数も限られるのだからと、派手なCG映画しか来なくなっては元も子もないことになります。
ビール業界に見る市場減少のメカニズム
同様の例はビール業界に見ることができます。日本で販売されている外国ビール、ハイネケンやクアーズ、バドワイザーなどはみな日本のビール会社がライセンス契約をして製造している日本製です。本来ビールのような嗜好品は、その味やイメージを浸透させるために品質を担保しています。しかし日本のように“看板だけを貸せば、何もしなくてもお金は入る”となると、やがて様々な製品に同じような潮流が生まれてきて、畢竟全体のレベルが下がるだけの状態になります。こんな現状を見ると、私達はクオリティを求める権利があると言っても、唇寂しとしか感じません。
この傾向は、あの韓流ブーム辺りからだったように思えます。ブームが過ぎた後でも何故かシネコンでは盛んに韓国映画ばかり上映していて奇異な印象を受けましたが、今は種類が変わったようです。劇場関係者はもう少し、目を見開いて市場を察知して頂きたいと思います。
業績の責任を消費者に転嫁してはならない
ひとつ付け足すと、もし眼鏡に適うものがあっても、チケット購入の仕組みなどが分かり難い、或いは利用し難い点も足枷となることで、これはコンサートや演劇などで顕著です。例えばチケット購入には○○会に入らなければいけないとか、先行販売で予約する為には会費を払って△△会に入るなどのルールです。もちろん入ったからと言って入手できるとは限りません。また入ってもそのあとの手続きがウェブを中心にしたもので、10時から受け付け開始して、何時間も電話しても繋がらない…となるともうこれは詐取だと穿る気持ちは分かります。少なくとも高齢者にはそのような手間もリテラシーもありませんから、無駄に不快さを感じるだけです。
大宅壮一氏が「白痴化」と言った時代から60年が経ち、今ではその娘の大宅映子氏が、そのテレビで、ちょっと首を傾げるような番組に出ているのですから、氏の心配は的中していたと言えますが、種の過程で考えれば、それが突然変異的なものであっても、全く違うコンセプトのものが成果を残せば、また180度流れが変わる事もありえます。しかし突然変異を待つまでもなく、自分達が文化を背負っているのだということ。間違いなくそのほうが収益も上がってくる時代になっていることに考えを巡らせてもらいたいものです。