今から100年ほど前。倉敷紡績で巨万の富を築いた実業家大原孫三郎氏が、当時まだ日本人が直に見たことのない国内初の西洋美術館を構築したのが大原美術館です。私は毎年、できるだけ7月を選んでこの地を訪れるようにしているのは、この頃岡山では白桃やアレキサンダー、ニューピオーネが超旬を迎えているためなのですが、JAの店先でこれを入手する目的を果たすが早いか、この美術館を目指します。美観地区にはこのほかにも大原美術館の分館や児島虎次郎記念館、倉紡記念館や倉敷民芸館などたくさんの美術館があるのですが、どうしてもまず大原美術館を訪れてしまい、日帰りの時でも貴重な3時間程を費やします。もちろんここにはそれだけの、それ以上の価値があるのは言うまでもないからです。
美術館の目録などに、大原孫次郎と親子ほど年の離れた画家児島虎次郎がタッグを組んで、西洋美術館創設に命を燃やした物語が書かれていますが、それは何度読んでも、何度聞いても心躍るような感動を齎してくれます。100年前の日本の企業家や市井の人々の凄さにしばし絶句してしまう気がします。
児島虎次郎が大原孫三郎の依頼を受けて購入した絵画にはモネの睡蓮がありますが、これとてお金を払えばすぐに手に入れられる時代ではなかったそうです。モネに熱い絵画への情熱を語った児島の意を高く評価してのち、モネは児島に、日本に絵画を譲ったのだそうです。情熱と言えば児島が最後に入手したフレデリック・レオンの「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」にしても、手放したくなかったフレデリックの気持ちを融解させたのも児島の情熱であったならば、実業家としてその利益を広く日本の文化の為に惜しげなく投入した大原孫三郎の情熱も心から湧き出たものであったと思います。児島はその絵画の実力に裏付けられた知識と眼力で、次々に名画、名作を発掘しては大原に「良い絵がある」ことを報告。大原は決して口出しはせず常に「手に入れよ」と指示を送っていたそうです。
一説には柳条湖事件の調査に日本を訪れたリットン調査団も、この創設間もない大原美術館を観て、その奇跡的功績を感じたようです。その後日本全土のありとあらゆる都市に、連合軍の無差別空襲が襲いました。よく、連合軍は京都の美しさを鑑み、この地への空爆はしなかったと言われますが、実際には京都には軍事工場など空爆する必要のある施設がなかったのが本当のようで、それでも落とし損ねた爆弾を市内に落としたらしいのですが、なぜかこの倉敷と言う最前線は後回しにされたのは、その影響であったという説もあります。
7月の岡山は既にすっかり夏の趣ですが、果物+美術館の楽しさがあるので、絶対外せない時期でもあります。もし少し時間があったら、児島孫次郎の生誕地、今の高梁市に高梁成羽美術館やゆかりの地もありますので、少し足を伸ばされてもよいかと思います。