福島原発 全く情報のない現状下に出た差し止め判決の是非

12月13日、広島高裁が四国電力伊方原原発3号機の運転差し止めを言い渡しました。そもそも原発から100キロ離れた原発反対派住民の訴えであることや、9万年前にあったと言われる噴火の想定被害を重視した判決理由にはかなり疑問を感じる向きはあります。しかし、こうした反対運動訴訟を受ける当の電力業界からは判で押したように「安価で安定した電力を届けるのが使命だ」とか「これで事業継続が困難になる」というコメントしか聞かれません。すでに「原子力発電は安価ではない」という大前提が否定されている現在、「そこかい!」と思わず突っ込みを入れたくもなります。

こんな情報開示の内容で何が判断できるか

確かに今回訴えを起こした反対住民の氏素性に疑問があるというのであればそうなのかも知れません。また裁判官の9万年前の噴火を理由にした判決が“ちょっと変”と感じるのも止むを得ないのかも知れません。そんな感情的、或いは一部イデオロギー的なものがあると仮定しても、私が、もし原発の運転差し止めに対して責任ある立場であるとすれば、迷いなく“運転再開”と言えるかと問われれば「否」と答えざるを得ないと思います。

その理由のひとつは、2011のあのメルトダウンがありながら、東京電力はもちろん、政府も官僚も、メディアも…。誰一人これに関して正確な検証や情報公開をしようとする向きがまるでないと言う事です。“それみたことか”といきり立つ反対派に対して、推進派は粛々と対策を進めるだけで国民が納得する検証は行っていません。時の民主党政権の責任者や東電幹部は単に逃げ回っているだけです。そんな状況下で“判断しろ”と言われても、法廷用の“証拠物件”だけで国民の安全が判断できるわけがありません。
中には大変社会的信用のある方のなかには、“適度な放射能はむしろ体には良いのだ”と言う論調をはりますが、では福島はどうですかと聞けばケースバイケースということになってしまいます。でも何の正確な情報も提供されない素人には、チェルノブイリを上回ると言われる規模のメルトダウンを、あの海岸沿いで起こしていて、数年で「改善されている」などと言われても、とても納得などできるわけがありません。

 

誰も責任を持とうとしない社会

また、福島ではこれだけの大災害があり、もう誰も言わなくなりましたが、吉田昌郎氏のような良識ある所長の命を賭した賢明な努力や、現在多くの現地作業員として高放射能の中、駆り出されている人々が生命の危機を省みず活動されている。また法範囲に及ぶ住民の方の命が犠牲となり、今も苦しみ続けている現状がありながら、誰一人として逮捕者がでないどころか、東電幹部を起訴する決定がでても何度も地検が不起訴を決めるなどの動きがあるのを見ると、畢竟まともな検証や情報開示などはできるはずもないと判断できるのではないかと思います。

“本当のことを発表したら日本経済や社会が瓦解する”としたり顔で言う人がいますが、それも縁台で将棋を指している好々爺たちの世間話の域を出るものではありません。“福島原発事故の正確な検証、情報開示”このような単純明快な要望を、イデオロギーや既得権益者などのフィルターなしに、誰が汲み上げてくれるのでしょうか。

来るべき崩壊の序曲?

従来、核や原発、国防や外交。実は日本人はこうしたシビアな課題の検証や解消については大変苦手な民族です。“鶏か卵か”の議論がありますが、だから江戸時代や戦後の東西冷戦期のような鎖国のような状態の時代には力を発揮したのか、力を発揮できたからそのような時代が長く続くことになったかは分かりません。しかしいずれも外圧によってその殻が壊されました。今は戦後の冷戦時代から、その殻を割られて、苦手なシビアな課題に向かわねばならない時期です。

そんな原則論をグダグダ言っているうちに100年前、あれほど隆盛を誇ったアルゼンチンは衰退しました。古くはカルタゴも同様でした。現在では“煉瓦の壁をぶち壊して”前進する為には“問答無用”なキャラクターを持ったリーダーが必要なのでしょうか。

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