私は誕生日が7月ということもあって、その頃には食卓には必ず鱧フライが並ぶ。何年もそうしてくると誕生日前日には家内が「明日はなにがいい?鱧?お肉?」とリクエストを募ってくれる。この場合の「鱧」とは鱧フライのことで、これまで1度も断ったことがない。若い頃、京都で鱧料理は食べ尽くした感があるが、鱧とは本当に料理のバリエーションの多い魚なのだが、家庭の味と言えば鱧フライで、家内のそれは年期も入っているのか実に美味い。
ことしの誕生日も無事、鱧フライが食卓にならび、細やかながら満足のゆく一食となったが、昨今気になるのは「鱧」=「夏の京都」というイメージが定着していることだ。テレビなどでは鱧が関東ではあまり食されていないのをよいことに、どこかの割烹屋のおやじが、いかに夏の鱧が京都特有のものであるかを滔々と語っている。しかし、これは京都の一部の人ではあろうが、たいへん悪い癖なのか、なんでもかんでも”京都発祥”とか”京都特有”などと、わりと平気で嘘を吹聴することである。
そもそも鱧の旬は祇園祭の頃ではない。これは昔から言われていること。一般に言われるのは一番の旬は11月。個人的にも10月頃かと思う。この時期が鱧が最も美味い時期だ。また鱧は京都のものと言っている意味も不明だ。鱧は海でとれるわけだ。確かに今では需要があるので、日本で採れた良い鱧は京都に送られるが、少し前まではそれほどでもなかった。西日本の多くの地域で普通に、しかも比較的安く食されてきていた。
秋が深まった頃、徳島や淡路島などでは、とても良質な鱧が食べられる。年間を通して大分県の中津市辺りでは、少し大味ではあるが身の付きがよい鱧が、どこの店でも食べられる。いや、それどころか瀬戸内では鱧の水揚げで有名な港が其処此処にある。私は鱧の骨煎餅とか鱧と松茸の鍋など、毎年必ず食べる鱧料理があるが、これらは京都でなくても、どこでも食べられるものだ。
ましてや、鱧を食べる為の”骨切り”は京都の料理人の腕の証明、体得するのに10年はかかるとか言うが、骨切りができるスーパーの店員などどこにでもいる。ちょっと京都では風呂敷を広げ過ぎのようにも思える。だからかは知らないが、夏の京都の鱧料理はバカ高い。単品で頼もうものなら、冴えない器に3切ほどでも、日本酒2~3杯分の値段というのもざらにある。
昔の京都は祇園祭の頃にも遊び甲斐があったように思える。私が毎年のように泊まっていた日本旅館の夕食には、鱧など決しておかなかったように思う。でも少し悲しい気もする。且つての京都には客の上に立とうとするような料理人や商売人というのはいなかったような気がする。今は京都のありとあらゆる場所で、”京都アズナンバーワン”的な蘊蓄が聞かれる。それも事実であれば仕方はないのだが、浅くて薄いものだから推して知るべしというものだろう。
「それ、去年も言ってたね」。笑いながらそういう家内に照れ笑いしながら、今年の鱧フライの再開と、1年無事過ごしてきたことに感謝する夕べだった。