日本人の”顔”について

陽は昇る 私的日録
日々の移ろい・感受した
ことを書き連ねました

以前から気になっていることがあります。それは日本人の”顔”についてです。何も、頭が小さくなったので…とか、二重が増えたといったようなものではありません。その”与える雰囲気”についてです。特に現在の日本を代表する人達に関するものです。

人の顔とはとても怖い”特性”があります。それは”その人の人生が、ある年代を経た後、顔に現れる”ことです。人生を通して、その人の経験や考えてきたこと、行動してきたことなど、外からは見ても判別できない真の姿が、60歳を越えて70歳になるころには、まるで刺青のように、その人の顔や表情、中でも眼に現れて来るのです。

いくら口では大そうなことを言い、きれいごとを並べる人でも、裏で正反対な人生を歩んでくれば”その年齢”に達する頃には、その汚さがいやおうなしに顔に滲み出ます。例えばご両親が揃って美女美男子でご本人がその美を受け継いだ人生を歩んできているはずの方が、年を経るにつれて何となく”変”な印象を受けるようになるようなことです。逆に男前、或いは綺麗とはほど遠い方でも齢を重ねるにつれて人を引き付けるような”味”のある方もおられます。そうした方は、その顔に相応しい人生を歩んでこられたということでしょう。

TVには多くの著名人や有名人が登場しますが、これなどは怖いことです。特に大手企業の会長や社長、急成長した既得権益的な事業をしている社長や経済団体のトップなどがインタビューなど受けると、自然に顔のアップが多くなります。いくら企業のトップに立ち、或いは団体の頂点に躍り出たといっても、最近ではこの顔や眼に人間的な卑しさが滲んでいると感じることが少なくありません。

これには私の偏見もあるのかも知れません。しかし過去の(少なくとも30~40年は遡る必要がありますが)著名人、有名人、経営者や実業家の方の写真をご覧になれば、その顔の違いに驚かれると思いますが、この違いの原因はどこにあるのでしょうか。

私は今では忘れられている”ノーブレスオブリュージュ”にあるのではないかとおもいます。社会的に高い地位にある人は、またその社会に対してそれ以上の責任を持つという考え方です。努力して社会的に高い地位を得ることになった人ほど、社会からの恩恵を多く受けている訳ですから、何かあった時には人よりも高く、無私の行為をしなければならないという考え方です。欧米社会や昔の日本にはその考え方がありましたが、もしかしたら私欲独占が幅を利かせている現代では、忘れ去られるのかも知れません。

しかし自然はまるで刺青のように、年を取るとその人生を顔に浮かび上がらせるという特性をつくりました。顔に浮かび上がらせるというのは”自分には分からない”ということです。「人は自分の顔をみることはできない。自分の顔を鏡に映して見ることができるだけだ」とも言います。「顔は男の履歴書だ」とも言います。言葉の意味をかみしめるのが必要な時ではないでしょうか。

 

 

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