“情弱(デジタルデバイド)を待ち構える地獄”。躊躇は許されないAIoT社会との向かい方
1995年と言えば、日本でもようやく経済の落ち込みが、一時的なものではなく、デフレスパイラルによるものではないかという事実に、人々が気づき始めた頃でした。日米貿易摩擦で来日したカンター米国通商代表が、橋本元首相の喉元に竹刀を突き付けるパフォーマンスをしていた頃。市場では1Gからようやく2Gに移り、買い取り制度が始まった頃で、インターネットはまだまだ海のものとも山のものとも言えず、当然信頼もされていない状況でした。
一冊の小説が暗示した“情報格差”の物差し
その頃、ベルンハルト・シュリングが書いたのが「朗読者」でした。この物語は、第二次大戦の前後のドイツが舞台です。別にITをテーマにしたものではありませんし、また未来を予測するような内容では全くないのですが、現代の我々に、その後、世界的に爆発的な広がりを見せただけでなく、21世紀に成長する唯一の業態として飛躍したITの存在と、それに対して生まれる社会的課題を包括していたという点で画期的なテーゼを提供していました。
この小説の女性主人公は文字が読めません。ですから彼女の人生は不利がつきまといます。彼女はまた、そのことを徹底的に隠しているのですが、それがまた悉く不利に働きます。親子ほど年齢の離れていた青年は、その女性と恋に落ちるのですが、その彼ですら、彼女の影の部分に言いようもない疑問を感じます。
戦後、彼女と別れたあと、成長して法律家の道を歩みはじめた青年は戦後のナチ裁判に、かつて愛した女性が断罪されるのを見ます。そして、その時の彼女の素振りから、彼女がひたむきに隠していた事実。つまり“文盲”であることに気がつきます。長い投獄の中で彼女の心の支えは、且つて愛し合った青年がカセットテープで送ってくる本の朗読。彼女はそれをきっかけに読み書きを覚え始め、努力の結果、文盲を克服した彼女と、大学教授となった青年が助けるために再開を果たします。
「それ故に、彼女には独特の魅力と威厳があった」。文盲であった頃の彼女を青年はこう表現します。そして今の彼女の姿が平凡な初老の婦人になってしまったことを嘆くのです。
ダイバーシティ(多様性)を許さないデジタル社会のかたち
この小説は、文盲であること(“読み書きができない”こと)で、被る情報格差が、彼女の人生にどれほどの不運を招くかです。しかし今日の私達は小説の青年が感じたように、そうした存在の中に“浮世離れの存在”とか“雲の上の人”的なものを感じ、ある種の威厳や尊厳を感じます。それは山奥で一心不乱にものづくりに没頭する職人や、研究所の中で世間と隔離されたような状態で学問に没頭するような存在です。しかし現実には、そのような生き方は、時代と共に徐々に存在意義を失い、現在では民俗学的なもの以外に、さして意味を持ちません。そのことは、そうした人々には後継者がいないことで確認できます。数百年続く職人技が最後の1人というのでは、それは絶滅を意味します。それほど、直接関係のない人にとっては、“言ってることと、具体的な行動には著しい乖離がある”と言う事です。
さて、この女性主人公の味わった悲哀は、全く新しい形で今日の私達に問題を提起します。“デジタルデバイド”がそれです。ITリテラシーのある無しが、その生活、人生の中で極めて厳しい不利を被ることを意味します。21世紀の文盲とは、このデジタルデバイドです。ITの知識やAIへの理解がなければ、個人の生活にも影響をきたしますし、時には生命の危機さえあります。経済についても、日本は中小企業が多い中で、ITを活用できない会社は、間違いなく明日潰れることになります。そして、デジタルデバイドには、且つての「それゆえの独特の魅力も威厳」を誰も感じません。単にそれは「社会的に劣った人(会社)」としか理解されないと言う意味では、そこには救いはありません。
躊躇は許されない“AIoT社会への舵取り”
この10~20年の間に、驚異的な成長を遂げたという企業をみると、例外なくインターネットの恩恵を受けた企業で、ITなくしては、業績の回復などあり得ないものであったことが分かります。逆にITなど自分には関係性がないと手を付けないとか、馴染みがなく、難しそうだという理由で避けてきた企業は、これもまた例外なく衰退の憂き目をみています。それはITやAIの持つ存在意義が“読み書き”とは本質的に違っていることを意味します。これらを俯瞰すれば、おそらく21世紀の世界は、AIoTを目指して邁進するでしょうし、現在私たちが想定する、遥か大きな結果を生み出すことになるでしょう。そうなると、私たちの社会の進むべき道は、すべての業界、業種、生活に於いてAIoTを迷わず活用する事に迷わないことになります。
インターネットの高度に普及したAIoT社会がやってくるのは必然です。その未来を拒否することが「独特の魅力と威厳」とは無縁となることも明確です。そのとき、その技術と無縁であることが、どのような悲劇を生み出すのかは、如何なる想像を超越するでしょう。しかし、その悲劇は「朗読者」の主人公が人生を通して経験したものとは比較のしようがないほどの苦痛と、不利益であることを、私たちは再認識する必要があるでしょう。