陽は昇る 私的日録
日々の移ろい・感受した
ことを書き連ねました
日本のメディアは日頃からあまり思慮深くない、或いは倫理意識のお粗末な報道しかしてこなかったこともあって、最近ではまともな報道というのに接したことが、とんとない。西日本豪雨被害はそんなメディアの恰好の暇つぶしというわけではないかも知れませんが、このGWには、そう思われても仕方がないようなお手盛り報道に明け暮れていました。
例えば二言目には「私も真備町に行って来たのですが…」を繰り返していた若いキャスターとやらが、「この地域では避難”すら”していなかった云々」と耳障りな言い方をしていました。非難すらできないようでは行政も打つ手はないではないかと印象付けたいのかも知れませんが(そうとられても仕方がない言い方でしたが…)深夜3時に襲ってきた洪水に高齢者がどのようにして対抗できるのかという視野すら持ち合わせていないようです。
番組の作り方も同様でした。メディアのスタンスはあくまで「他の震災でお世話になった方が、せめて恩返しのために…」ボランティアに来ていることが、なにか素晴らしいかのような報道が多かったように思えます。大体”ボランティア”という言葉を”災害援助活動”と混同しているようですが、子供の通学の見守りもボランティアなら、二次災害や健康被害など命を落とす可能性の高いものも同じ”ボランティア”だけで済ます意識も問題ですが、ボランティアに参加して声をかけることなどを美化する報道は、それができない人のことは考えていないようですし、またボランティアに扮した泥棒や性犯罪者などには格好の隠れ蓑ともなります。単純にボランティアを美化するのは大きな問題です。(阪神大震災の時の”震災ベビー”なども同様です)
むしろ、自衛隊が災害に”駆けつけなければならない”というのは自衛隊員に対する職業差別にも通じます。やはり災害の際には例えば日本の地元の消防団やアメリカの州兵のような地域を守る組織を制度として設けて、同時に無料ではなく日当などをしっかり支給する制度を考えなければなりませんが、そのような視点の報道など期待すべくもありません。
挙句には「行政はハザードマップを作成しているのに、市民の側がそれに無関心だ」というスタンスの報道で、これは行政に対する非難をかわす意図でもあるようです。配布されたハザードマップに自分の家が水没エリアと記載されていた場合「避難所までのルートをしっかり確認してください」と言っていましたが、その時テレビ画面に映っていたハザードマップの水没エリアには何十という避難所が記されていましたが、それが変に感じないのでしょうか。 市民がハザードマップをみても、或いはしっかり見ないのは、それを見ても実際の災害の時には手の打ちどころがないことを知っているからです。逃げれるのであれば市民は逃げます。しかし今回の災害は”逃げることができなかった”のです。にも関わらずスタジオから上から目線で、言って切り捨てるような姿勢には開いた口がふさがらない印象を受けました。
だいたい、ハザードマップの問題はそこにはありません。ハザードマップなど行政が作るものではありません。そんなもの入札に出せばすぐに印刷までして納入されます。問題なのは「なぜ行政は、市民の生死にかかわるような重要な情報を受けてながら、何十年も無策だったか」なのです。新しい道や、道の駅、市役所の新庁舎などはあっと言う間に完成させる行政が、ちょっと予算を回せばいくらでも手の打てる災害対策に、いつも無策であるのは行政の意識の中に「自分達は特別な存在で、市民などは取るに足らない存在だ」と無意識のうちに意識しているとしか言いようがないのです。きつい言い方かもしれませんが、代議士や既得権益者については、積極的に予算を振り分けているのですから、このように言われても、これも仕方のないことです。市民の多くも性善説ですが、役所に”守ってもらっている。守らせてやっている”と感じているのは、前者たちということになるのでしょう。
いつものことながら、今日も害だけで、何の役にもたたない報道をしてゆくメディアが、日本全国を跳梁跋扈するのを、市民は手をこまねいてみているのか、或いはテレビなど見なくなるのかの二者択一を迫られているのでしょう。そう言えば昭和初期生まれの人の多くから「テレビはアホの学校」というフレーズを聞いたことがありますが、何か知っていたのでしょうか。