現代社会は私達に何を残してくれるのか

京都国立博物館で41年ぶりに「国宝」展が開催されています。連日の超満員で立錐の余地もありません。また国宝と言っても、全てが芸術的な高みを持ったものではなく、“よくぞ残ってくれていた”意味のものも多いので想定以上に疲れます。ハルカス美術館では「北斎展」。比較的小さい美術館だけに、入場するのに1時間待ちというだけでもゲッソリするが、中は中でイアホーンガイドを借りるのも行列なら、北斎の小さい作品をのぞき込んで動かない人の塊にまたゲッソリします。これらの企画展で得たのは“忍耐”ですが、しかし本当に日本人はそれほど芸術が好きなのでしょうか。常設展を観に行って人と接触するなど考えられません。でも…日本人は好きなのであろうと思います。問題は、その“時代”なのだと思うのです。

書斎を観回して気づく、精神の糧となるもの

例えばある一定の年代の方の家の書斎には、絵画の印象派の画集は必ずと言って良いほどあります。壁にセザンヌやモネの風景画や人物画は何らかの形であります。この正当性というか通俗性のようなものは、親近感があり、いくら観ていても飽きると言う事がありません。しかしマチスやシャガール、ピカソ辺りになるとぎりぎりの感じがします。それが良く分かるのはピカソでいうと、壁に似合うのは青の時代からキュービズムくらいまでで、その後は対象外となってしまいます。
音楽となるともっと極端です。私の知人の書斎には昔のレコード盤からCDまで音楽の録音媒体が凄まじく並んでいますが、そのほとんどがモーツアルトやベートーベン、ショパンやチャイコフスキーであり、その隙間をバッハやブルックナー、ロッシーニやワグナーなどが埋めています。しかし20世紀を活躍の舞台にした音楽は極めて少ない。蛇足になるが文学も同様です。ほっと一息ついて、もう一度何か本などを読み返してみたいと思った時、頭に浮かぶのは、トルストイの「戦争と平和」とか、ユーゴの「レ・ミゼラブル」やデュマの「モンテクリスト伯」、ちょっと時間があるときはじっくりドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のような古典に遡ります。20世紀の作家となるとT.S.エリオットやフォークナーになると重い。マルローやヘミングウェーなどもすっきりしない。サルトルとなると、かれの実存主義文学など、これがあと10年後、人々の記憶に残るものなのか明言できない窮屈な代物としか言えません。私達の周りで心に安らぎを与えてくれるものは、もはや20世紀以降はなかったのではないかと思います。

20世紀の不毛さが語るもの

その古典についてですが、日本で開かれる展示会のほとんどは20世紀以前のものと言って良い。少なくとも“客の入る展示会”というのであればそうなります。何故こうなってしまったのか。それは20世紀が社会的にも精神的にも人心を崩壊させるだけの不健全さがあったためでしょう。20世紀は人が社会を計画できると勘違いして、人々の自由や命さえ犠牲にするのに厭わなかった社会として後の歴史家は評価するのだろうと思いますが、同時に世界中でイデオロギーの名の下に考えられないほどの数の人命が損なわれた時代であったとも評価されるのだろうと思います。ルネッサンスから19世紀まで、流れてきた人々の営みが、20世紀初頭になって突然断ち切られたために、不毛な20世紀の100年を送らねばならなかった。それが今日の我々の感覚に刷り込まれた後悔であり、人々が古典に引き付けられる証左ではなかったかと考えます。

不完全なる完全

私の周りにもレコードやCDが残っていると言う意味では20世紀半ばまで活躍した指揮者として、フルトヴェングラーやトスカニーニ、ムラヴィンスキーを評価する人は少なくないです。こと演奏に関するとカラヤンやバーンスタイン、ジュリーニなどもいますし、私自身クライバーやハイティンクの交響曲には絶賛しか感じないのですが、好きか嫌いかと聞かれればトスカニーニやフルトヴェングラーのラフカットさが好きです。技術の進歩で人は過去の偉人の業績を簡単に身に付ける術を持ちました。その為に非の打ちどころのない演奏が可能となるのですが、それまでの演奏家のような良い意味での“無駄さ”がない。その無駄さが彼らの意図した“演奏技術”だと気が付くまで数十年を要したものです。人はまた、人間的味わい、“不完全なる完全”をも求めるものなのだと、今は思います。

私達はなにかを築き上げることができるのであろうか

そんな20世紀から生きてきた私達は、果たして何かを築き上げることができるのであろうかと思います。勿論個人的には、多くの業績を築き上げた人はあるとは思います。しかし、市井の人々はその日々の生活の中から生み出す“時代のご褒美”のようなものはおおよそないのではないかとも思います。少なくとも、50年後の人々が20世紀が生み出したものを、見い出し高めてゆくことは、今のところ考えられません。私達は冨や名声を追うのと同様、子孫の社会に遺せるもの(それは、そのものを継承すること)を生み出す努力を、今必死に行わなければならない時である。美術館の行列に草臥れながら、そのようなことを感じました。

 

 

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