成人と言いながら子ども扱いされていると感じていた、自分の成人式の頃
「成人式のボイコット」とは穏やかではないテーマですが、以前から―私が成人式をあげた頃ですが―持っていた違和感に関してです。12日・13日は全国で成人式がとり行われました。遡って自分の成人式の時は、スーツも持っていませんでしたし、今ほどの特別感がなかったのか、女性はほとんどが晴れ着でしたが、私はセーターとダルなコートで行っていたことを思い出します。報道での全国の成人式の風景を見ると、実に美しい成人の姿があり、微笑ましくも頼もしくも感じます。その意味では新成人を迎えた皆さんにおめでとうの言葉を贈ります。
しかし、とは言いながら、私は自分の成人式の時に、とても強い違和感を感じていました。”今日からは一人前の社会人だ”と言われて会場に行くと、市からのアルバムや化粧品会社の試供品が入ったお土産が配られます。皆は体育館に並べられたパイプ椅子に、小中学生のようにきちんと並ばされ、制服よろしくスーツや晴れ着に身を飾っています。いったいどれくらいの成人が自費で調達したかは想像がつきます。壇上では校長先生宜しく年長者が祝辞を述べて、新成人は黙って聞くだけ、昼頃終わって、あとは同窓会の準備…。何かガキ扱いされているようで違和感を感じたものです。
しかし、多くの新成人や保護者はそうは感じていないようです。一般的に成人式のイメージと言えば、晴れ着、午前3時くらいからのヘアーセット、同窓会、酒を飲んで暴ばれまくる…などかと思いますが、新成人のアンケートでは、それでよいと感じているようで、さらには成人式は公費、つまり税金で賄うべきだと言います。保護者の多くも、一生に一度の事なので、多少家計からの出費があったとしても、それはよいことだというのが一般的な反応なのでしょう。
そもそも日本のような成人式のスタイルは諸外国にはありません。また成人式を社会が祝うという習慣が終戦直後に発生したもので、当時世界の最貧国となった日本の若者に、せめて人並みの経験をさせることが目的で起こった地方都市の企画であることは周知の事実です。それが今では美容院やレンタル着物店の売上げにはなくてはならないものになりました。しかし、特にこれという理由もなしに、多額の費用を親が負担してゆくという風習が、これからの日本で続いてゆくとは考え難いものでしょう。晴れ着が着れなくて成人式へ参加できないという成人が激増してゆく、と言うより、すでに増えているとも聞きます。しかしそれ以上に、新成人のスタート直後に、社会に寄生するような考え方からスタートすることに違和感を覚えるのです。
成人式の盛り上がりと、下る一方の世界の日本に対する評価
先頃、OECD(経済協力開発機構)が「PISA」の集計結果を発表しました。「PISA」とは国際学力調査のことで、世界79の国と地域(世界78の国と台湾のことですが)の15歳60万人を対象に、科学、数学、読解力を測定したものです。これ自体、1つの民間調査に過ぎないので、大騒ぎする必要はありませんが、日本が読解力が前回より大きく下げたことが話題になったことは知っておいても良いかも知れません。
調査について、日本人の読解力が低下した要因は「ゲーム時間の増加などによる学習時間の減少」、「SNSの普及によるコミュニケーションの短文化」、「読解力を養う学校教育の問題」というお決まりのフレーズが並ぶのですが、これはどこの国でも似たり寄ったりですので、よほど日本が急激に下落していると感じても仕方がないのかも知れません。
似た調査で、スイスのIMDと言うのがありますが、ここでも看過できない結果が出ています。それは戦後日本の衰退を象徴するような結果です。それは“世界人材ランキング”というもので、その中の項目で「日本の管理職の国際経験は63位(最下位)」、「言語スキルは62位(ほぼ最下位)」とされています。つまりは、日本の人材は価値がないことを表しているのです。
最近の傾向として、日本では日本独自の文化を極度に協調して評価する傾向が強まっています。“おもてなし”とか“クールジャパン”、日本独特の“職人芸”などが、その代表例でしょう。もちろん、自国の文化や歴史に誇りを持つことは重要ですが、ただいたずらに自己を過大評価して悦に入り、そこから出る事ができなくなることは、知性の稚拙化以外のなにものでもありません。こうした日本社会の稚拙化については社会的な視点で論証する必要があるでしょう。
成人に誇りと責任を持つという事
現実を見ることをせずに社会に甘え、与えられたものは遠慮会釈なしに手に入れ威勢を張るような言動に快感を覚えるという愚は、日本人として卒業する必要があります。最近では従来の成人式が不人気なので、役所がさらなる税金を浪費して、芸能人を呼んできたり、テーマパークを借り切ったりなどの”甘やかせ”が流行しています。何の根拠も実績もない中で、自分達はそのように扱われる価値があるのだと無意識に感じさせる成人式という儀式が、個々の新成人の第一歩であるとすれば、その存在価値を見直す必要があるでしょう。
そこでひとつ提案。これまで成人式を行ってきた市町村を対象に、前年に成人式をするか、しないかの投票などしてはどうでしょうか。つまり「成人式ボイコット投票」です。するというならそれも良し。もう税金で行う成人式など止めて、成人式で浮いたお金を市町村の借金の返済などに回すという決議があっても、それは立派な“成人の主張”になるでしょう。新成人になるとは何なのか、それを社会的に考えることを、新成人への社会からの贈り物にするという考え方です。
新成人に社会参画への入口を示す。そして、新成人は自分達は、税金に寄生するだけの“社会パラサイト”ではないと宣言してはどうでしょうか。それが、衰え三流国家化してゆくだけの日本を救うためのひとつの政策となるのではないかと思うのです。
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