3月28日追悼のラフマニノフ「ピアノ協奏曲第二番」と教養の世紀への潮流

21世紀の書斎で感じた「教養」の時代

3月28日は、ラフマニノフの没日。彼は生誕が4月1日なので、毎年この日辺りに彼の曲を聞きながら時を過ごします。もちろん彼だけが特別なわけではなく、有名な歴史上の人物の誕生日に一喜することもあれば、有名な映画俳優の命日に一憂することもある、つまりは誰にでもある私的な記念日ということです。今年は少し早めでしたが、書斎でお酒を片手に「ピアノ協奏曲第二番」を鑑賞しましたが、ラフマニノフを聞くたびに想起するのは「教養」の時代という概念でした。

その前にラフマニノフについての個人的な感想や思い出について。セルゲイ・ヴァリエヴィッチ・ラフマニノフは1873年にモスクワ北西部のノヴゴロド州セミョノヴォに生まれた音楽家ですが、彼の活躍した時代には作曲家というよりはピアニストとして有名だったそうです。逸話があって2メートル以上の身長があって当然手も大きく、親指でドを押さえて同時に小指で1オクターブ上のソを弾く事ができたとか、有名音楽家だけあって、多くの物語があります。


ピアノ協奏曲第一番の初演の時、指揮を担当したグラズノフが酒を煽っていい加減な演奏となって、その失敗で落ち込んだという有名な話もありますが、これは今では検証されていて、当時、ラフマニノフはロシア楽壇のモスクワ派に属していましたが、初演を敢えて敵対(?)するペテルブルグ派の拠点で演奏したため、批評家たちの餌食にされたという事のようです。

チャイコフスキーに見いだされながら、ロシア革命でヨーロッパ、その後アメリカに亡命し、1943年の3月28日にアメリカ、ビバリーヒルズの自宅で死去。ベートーベンのような苦しみやゴッホのような悲劇もなく、晩年は名誉も資産もありましたが、戦時中でもあり、祖国へ帰りたいという望みは叶えられませんでした。以前、マンハッタンから北へ40㌔ほどのケンシコにある、ラフマニノフの墓地に参ったことがあります。ここは映画の撮影にもよく利用され、街の縮図のような区画割りされたパーク型の墓地で、その一角にありますが、華美さはなく静かで穏やかな造りで、八端十字架が印象的でした。八端十字架自体は広く東ヨーロッパのロシア正教やギリシャ正教でも用いられているものですから、ラフマニノフの故郷に対する意識を忖度することができるのかも知れません。

彼の作品を聞いているとその美しいメロディーが主体でセンチメンタリズムが重すぎるという批判もありますが、それを俗っぽさと判断するか、個性と評価するかで印象は変わります。しかし決して稚拙などと言うのではなく、交響曲としての論理的構成も完成されていて、そこには循環形式も正確に反映されています。循環形式と言うのは単旋律歌の有名な一部分が定旋律として楽曲の各章に組み込まれれる、19世紀の形式でベルリオーズやサン・サーンス、リストなどの作品にも見られるものです。彼の旋律からは、情感や感動のほか、技術や論理性などに高い水準を感じさせ、それが今日色褪せることなく私達の心に訴えてくるのだと思います。

19世紀と20世紀の何が違うのか

私は20世紀を省みると、それは殺戮とイデオロギーに基づく実験社会の失敗の時代だったと位置づけられると考えてきました。特に芸術や教養に関してはは19世紀の残像を引きづり、やがて散霧してしまって、未だ復活の糸口が見つかっていないと感じます。
今でもほとんどのフランス人は、憧憬の意を込めてレゼンネ・ミル・ヌフ・サン(二十世紀初頭前後の意)の時代を振り返りますが、これはこの頃こそが”文明の最後の花が咲き誇った時代”だと認識していて、具体的には”19世紀という教養の時代が最高潮に達した時代”であることを意味しています。

例えば絵画でいうと心穏やかに接することができるのは、やはり印象派であり、今でも複製画を飾られている方の多くがセザンヌモネを好まれます。ピカソシャガールマチスなどは20世紀に活躍していますが、彼らが築き上げた芸術的創造性が、その時代を代表するものであるならば、明らかな後継者が育ってきたはずで、彼らの芸術性は20世紀の創造というよりも、19世紀の古き良き時代の生き残りの感があります。事実、ピカソにしても、彼の作品が輝いていたのは青の時代(1901年)ローズの時代から、キュービズム(1907年)までだという感想を持っていますが、それについては同感していただけると思います。

音楽もまた同様で、書斎にはバロックからモーツァルトベートーヴェンチャイコフスキードビュッシーの時代のものがあれば良いと言えます。私的な意見ですが、ロマンローランが20世紀初頭、ドビュッシーが逝去した時「ハープの糸が切れた」と表現したのは、その高い見識から見えていたのだと思います。ロマンローランに倣ってではないですが、その意味でも私はラフマニノフが大変好きで、彼がその代表作「ピアノ協奏曲第二番」を創作したのも1906~1907年。まさにレゼンネ・ミル・サン・ヌフの只中でした。

21世紀に教養の時代への潮流が起こることを期待して

現在はAIの時代です。余りに早いIT技術の進歩は、私達に文化や教養の多様性や、時間的余裕を認めてくれません。しかし情感や感情、物事を感じる心、人と接する中で生まれる節度や慣習、なにより前頭葉を刺激することで生まれる経験知などは、時と共に疎遠な存在とすらなってきています。
次に教養の時代の潮流が起こった時、それは19世紀のそれと同様のものなのか、またはまったく違ったものかは不明です。しかし言えることは、教養の時代へのアプローチは決してデジタル的スピードや手法でもたらされるものではないと言う事です。

人類は20世紀の100年間、不毛な営みを続けてきました。科学や社会が爆発的な瀰漫をみせてはいますが、この“感性と教養の歩を止めた100年”を取り戻すのに、私たちはどれほどの期間を費やすことになるのか。1日も早い時代の潮流が起きることを期待したいと思います。

活力あるスケルツォからアダージョ、そしてフィナーレへと続く演奏に接して、私達の居るところが、スケルツォ以前なのか以後なのかすら分からないことに、そして教養への潮流に繋がる胎動の始まりに想いを馳せました。

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