日本カヌー連盟の対応に見る、日本社会の無責任体質と責任回避テクニック

昨年9月の日本カヌースプリント選手権でライバル選手のドリンクボトルに禁止成分を含むステロイドを混入させ、飲ませた鈴木康大(32)が日本アンチ・ドーピング機構(JADA)から8年間の資格停止処分を下されたという報道がありました。その後、同選手の行動はこれにとどまらず、選手の道具の窃盗や破壊などが判明しただけでも8年前から続いていた、つまり同選手はその選手としての期間中ずっと、こうした妨害行為を繰り返したと推定されることも判明しました。
報道各社は“日本では考えられない行為である”とか“現場の危機感がなさすぎる”と同連盟や現場の認識の甘さを指摘して溜飲を下げていますが、おそらく現役選手や若い方からすると、むしろ“何を今さら”とか“危機感がないのはメディアじゃないの”という冷めた見方が強いのではないかと思います。ここでは“大人社会の無責任体質とテクニック”について考えたいと思います

日本だけが犯罪のない特別な存在であるわけはない

その前に、そもそも今回のような不正な行為は、本当に“日本では考えられない行為”なのでしょうか。そういえば神戸や東北の震災の時も、日本では強奪などの犯罪はまったくなかったというような論調がありました。そしてそれに世界が感動したといいます。確かに日本の規律というのはそうなのかも知れません。しかし”まったく”ないというわけはありませんし、中には卑劣極まりない犯罪も多くあったと聞きます。だから、今回の事件が”日本では考えられない”などと言われても、まったく信用するわけにはいきません。

だいたいに於いて、今の日本で小学生が同級生の下駄箱の靴を隠したり盗んだりするのはよく聞く話で、悪質なものになると剃刀の刃が入れられていると言います。気に入らないだけの理由で仲間外れにしたり陰鬱な嫌がらせなど日常茶飯事であり、暴力行為や金品の強奪行為などに至っては、事の大小や、意識の差はあっても経験したことのない人などいるのかすら疑問です。そんな中で“スポーツは爽やか”であったり“日本の若者は清廉”などと言っても、当の子供達やスポーツ選手にとっては、“大人はどんな認識しているのか”と言わざるを得ません。

私は“子供は不浄”だとか“スポーツ選手は皆悪質”だと言っているのではありません。まだ年齢も若く、社会経験に乏しいだけに、そうしたマイナスな面に陥り易い側面を指摘しているのです。だからこそ、社会には甘やかすのではなく、厳しく指導してゆく姿勢が不可欠であるにも関わらず、当の大人たちは自分達の保身に汲汲していて、選手や子供達にまともに向き合う熱意は持ち合わせていない(少なくとも選手たちの視点からして)のだと言われればそれはまた正論でもあります。

企業などが盛んに悪用する責任回避テクニック

しかし、そうした問題が表面化した時の対応が、ひとつのテクニックとして用意されていることにあります。つまり「謝る」「離れる」「とぼける」などの使い分けです。例えば今回の例で言うとどうなるか。さっさと謝罪会見をします。そして“こんなことは前代未聞だ”とか“想定外”そのあとは関連団体など些末とも言える団体に丸投げをします。すると今度はメディアが“認識が甘い”とか“危機感の欠如”といって攻め立てますが、それ以上にはなりません。相手のレベルが低いと叩いて終わりになります。
当の本人は、認識があったと言えば“ではなぜ対処しなかった”と攻めたてられますので、そうなると誰かが責任を取らねばなりません。でも“想定外だった”とか“日本では考えられない”と言えば、認識の甘さは問われますが、身は守れる可能性がグンと高まります。同じような話は外交官の世界ではよく聞きます。


且つて問題を起こした大使を外務大臣が大臣室に呼び寄せて叱咤すると、その場で地面に寝転んで、赤ちゃんの真似をして自分の指を舐め続けたといいます。もちろん外交官をするような人間が、そのような本質を持っているわけもなく、大臣も話にならぬと席を立ったようですが、結果論からするとその大使は身を守ったことになります。大なり小なりということでしょうが、それに準じたテクニックが瀰漫しているのが今ということでしょう。

これが日本が戦後、粛々と築き上げて来た社会構造の成れの果てなのかも知れません。これに対して“襟を正せ”とか“構造改革せよ”と口で言うのは簡単です。しかし、選挙システムや公務員法を具体的に改正させないと、何の効果もありません。既得権益に守られている人々が自らの生活と優位性、なにより“身分”だと考えているその立場を放棄するなどSFでも描けない非現実的な意見になります。

「離れる」については今回のカヌー事件を例えにして簡単に説明すると、”行動明瞭 意味不明”な対応です。今回のケースでカヌー連盟では”ドーピング設備の見直し”等、相変わらずお金のかかるだけの対応を”明確に”打ち出していますが、だれの目から見ても「いやいや、ことの本質は、それとは別のものでしょ」ということは分かります。もちろん同連盟もそのようなことは百も承知の上で、あとあとになれば「社会的にも認められた対応なのだから本質はドーピング問題だったのだ」と曲解してしまいますが、これなども真摯な対応とはおおよそ言い難いものです。

見直すといって何十年も手が付けられていない天下り、既得権益者の異次元身分体質

その上で言うのですが、こうした社会に瀰漫する既得権益団体についてです。もちろんこれは日本カヌー連盟だけのことではありません。いわゆる“公益社団法人”など同様の団体に押しなべて言えることですが、こうした団体はれっきとした“天下り組織”であるという指摘は以前からあり、それを否定する材料はありません。小さな競技団体でも驚くほど多くの高給で仕事のない“官僚・役人出身者”が占めています。またその代表者の多くが勲章を頂く候補として存在しているだけで、スポーツ振興については圧力団体としての存在しかないという指摘もあり、これもなるほどごもっともとしか言えません。日本カヌー連盟の成田昌憲氏も平成21年に藍綬褒章を授与されているれっきとした後期高齢者です。一国のスポーツが、天下り官僚のご褒美享受のための仕組みであるのなら、そんなものが必要でしょうか。それを文部科学省などが後押しをしているのだとしたら、このブログではよく言っていますが、こんな省って不要の誹りを免れないでしょう。

-マーケッターが往く
-

© 2021 明日を読む