世界イベントはレガシーの為に催されるのではない。コンテンツがレガシーとなる

「人類の健康 長寿への挑戦」をテーマに起草された「大阪万国博覧会」も、官僚や経団連辺りが関わるにつれて、テーマも「命輝く未来社会のデザイン」などという漠然として魅力に欠けるものになってしまいました。私が驚いたのはこの時のテーマの変更理由でした。
経済産業省有識者検討会(よく聞く名称ですね)では「若者や途上国などの関心を集めるため、より広い内容を包含できるテーマが適当と判断した」としています。つまり、若者や、ましてや途上国の人間には「人類規模での健康や、長寿など関心の小さい物だ」と言っているようなもので、これは大変差別的な考え方のように感じます。私は逆に「検討会は、彼らには命や長寿など関心が低いと断定していますが、関心の低いのは有識者検討会ではないのかと問いたくなります。

知能と知恵の集積こそ博覧会のリーゾンデートルである

同検討会では、新しいテーマの具体例として「AIを搭載した人気アニメのキャラクターのロボットが来場者を案内したり、会場周辺をスーパー特区にし、医療・健康、自動走行、ロボットなどの新技術に国内外から投資を呼び込んだりする」などを上げていますが、正直このような少し黴がかった新コンセプトが2025年にどれほどの吸引力を残しているかというようなシミュレーションはしていないようにも思えます。官僚や経団連関係にとっては、万国博覧会は文明・文化の祭典と言うより、単なる地方イベント、或いは自分達の存在を誇示する為の材料としか感じていないのかと言えば言い過ぎなのでしょうか。

最近ではもう開催が決まったかのように、やれ跡地はどうするのかとか、その施設は何に利用するのかなどという、そのレガシーの利用方法が盛んに取り上げられています。いつの頃からか世界的なイベントはその施設を廃物利用的に何かに再利用しなければならないような風潮が瀰漫しています。

しかし、万博やオリンピックなどという世界的なイベントは、そのような予算配分で考えるのではなく、イベントのコンテンツ自体がレガシーとなって、その後の世界を引導してゆくというものでなくてはなりません。そのためには、2025年の社会や人類が求める課題を正確に予測し、引導する発想が不可欠です。それがなくてレガシーなどを取り上げてそれが最大の価値のように騒いでいると、肝心の世界イベントが骨抜きの中身のないものになってしまいます。

人類単位の発想でなければ、人類のイベントはならない

東京2020オリンピックが良い例です。当初のスタジアムや大会デザインや都市計画案には日本の技術が世界と融合する可能性がみられ期待感が膨らんだものです。しかし、意味不明の白紙撤回が相次ぎ、最終的には大企業や地主、政治家や官僚、メディア…。いわゆる既得権益者達の利権や手垢にぼろぼろにされて、田舎の体育大会のようなレベルに落ち込み、レガシーどころか世界大会すらできない競技場や、利益誘導だけの為の新競技場案が乱立するどころか、肝心のメインスタジアムに聖火台を忘れるなど、安物のコメディーでも、躊躇するようなベタなネタが現実のものとして我々の目に晒されては、白け以上の感情は生まれてきません。すでにスポーツ文化的に敗北が決まったようなイベントになり果てている印象があります。誰もが「オリンピックが終わったら、日本経済は長期低迷に入る」という意見に反論のきっかけさえ掴めない中、高齢化した2020年の日本がオリンピックにどのような光明を見つけ出せるかなどというと希望を見い出すことの困難さに改めて気づかされます。

では1970年の大阪万博の場合はどうだったでしょうか。核となるお祭り広場や太陽の塔などでは丹下健三氏と岡本太郎氏が胸倉を掴むような(実際そうだったようですが)議論を戦わせながら、それがその後の日本にどのような意義を残せるかを追求してゆきました。最近ようやく太陽の塔をあのまま置いておくのは勿体ないとの考えからリニューアルをしていますが、それ以外には大阪万博の影は残されてはいません。その代わり、「人類の進歩と調和」というテーマはその後、今に至るまで世界の大きなテーマであり続けていますし、答えも出ていません。
またなにより、あのイベント後、日本は劇的に変わりました。「新日本の構築」でした。あの半年の間に、人々の衣食住はそれまでと違ったコンセプトに変化しました。まるで魔法のようにです。現在の日本文化というものはそのほとんどがあの万博から派生したと言っても過言ではないような抜本的な変化でした。

日本を変えた実例に学ぶ

それは人々の生活に大きな変化をもたらしました。残された万博のフィルムを見ると当時、男性来場客のほとんどは開襟シャツに黒や紺のパンツ姿、女性客のかなりの割合が着物姿です。それが“カジュアル衣料”という発想に転換しました。日本の主だった食品関係の会社、事業者は外国のガラス張りのレストランを見て「日本人は食べている姿をみられるのが嫌いだ」と決めつけて1社として追従しませんでした。畢竟、食品を生業としない企業がこれは斬新と飛びついて、万博後、1年もしないうちに日本国中にガラス張りレストランが広がったのは有名な話です。日本人がコンセプトを打ち立てて日本人の遺伝子の根底を揺さぶったのですね。

他の立候補国のテーマと比べても、もし日本が「人類の健康 長寿への挑戦」というテーマをそのまま維持していたら2018年11月頃には、選考レースとか接待などというレベルを越えた支持が集まっていたのではないでしょうか。世界に後れを取っているITやAIのジャンルに軸足を置いてしまった挙句、国内規制でがんじがらめになって進まない、自動車会社のの自動走行システムや、またこれまでの信頼を背景に不祥事が相次いでいる日本技術への期待度の裏返し現象が起きないように祈るまでです。

再度言います。世界的イベントは「コンテンツこそがレガシーとなる」。それが原則です。そしてできれば「一過性のもの」であるべきです。千駄ヶ谷の代々木体育館は丹下健三という天才的な建築家がいてなり得たものという見方もありますが、当時はそれを許可した気骨のある官僚が多くいたことも重要です。今、若き丹下健三氏がいても潰されてしまうでしょう。前の東京オリンピックの希な例外は、そんな社会がまだ残っていた時に、奇跡的に優れたデザインを提供できた才能があって成し得たのであって、それは“遺した”のではなく“支持された”に他ならないのです。
現在の日本にはそれだけの“腹”は残っていません。レガシーと称して不細工な建物を多く残すなどと言うのは「官僚主導」や「東京一極集中」などの負の遺産を遺すことになるだけでしょう。もうそのような不毛な議論は、オリンピックや豊洲の市場移設くらいで打ち止めにしてもらいたいと思います。

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