何もしてこなかった日本に、IRを牽引する実力は残っているか

陽は昇る 私的日録
日々の移ろい・感受した
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IR問題が紙面を賑わせる中、いまひとつ盛り上がりに欠けるという意見を多く聞きます。少し事情通は”これはメディアが東京一極集中の弊害で、東京以外で起きていることには興味を示さないのだ”と言います。確かに東京メディアには番組編成権というのがあり、事件と事故、選挙とスポーツ以外はいくら大きなことが起きてもメディアは無視します。逆に東京で起きたことは細やかなことでも、全国に報道されます。しかし、私はこれをメディアの問題とは別の見方をしています。IRのような総合的な知識と全体を広く見渡す必要のあるニュースを咀嚼する能力が、今の日本に既に残っていないか、牽引力が無くなってきているのではないかと考える事象が増えているからです。

IRとは総合型リゾートを意味しますが、その根幹には”MICE”ビジネスが切っても切れない関係にあります。Meeting , Incentinve , Convention , Exhibitionを意味していて、それぞれ”会議需要”、”慰安旅行”、”大会需要”、”展示会需要”がIR事業全体を支えて行く図式で、これらは個々には収益性も期待できるのですが、安定性という意味では多少の波が想定されます。また一つ間違えば(特に日本ではこうした事業が役人を中心に計画されるので)単に税金をつぎ込むだけの”浪費事業”になることも少なくなく、1990年以降、日本全国でこうした事業の後始末に膨大な税金が投入されもしました。

ですので、これら乱脈経営をすることのない体制作りが不可欠ではあるのですが、別視点で、その経営を安定させる手段としてIR、とりわけカジノなどが注目されてもいるのです。しかし以前のブログでも書きましたが、ラスベガスのように町全体がIRであるのなら別ですが、たかだか大型商業施設や豪華ホテルが2つ3つあるくらいで、MICEの需要を安定させることは難しい面もあります。

しかし、一番の問題は、IR、MICEのいずれもが、都市計画や事業運営という面だけでなく、気持ちのゆとりなどの”FUN”にまつわる知の能力がなければならない点です。2020年の東京オリンピック開催に至るゴタゴタは、まさにそうした日本の知力の欠如を見せつけました。またその背景には潤沢な資金を背景とする東京都とスポーツ組織委員会や在東京の既得権益者の跳梁跋扈がすべての足を引っ張り、せっかく画期的な事業コンセプトが提示されても、既得権益者や官僚の壁に阻まれて、畢竟税金の無駄遣いが続いて行く事になるのは明白でしょう。

今の日本には既に、大きな設計図を引ける能力と、それを実現する為の牽引能力。なによりも知識と知力に裏付けられる”未来を創造する能力”は残っていないように思えます。またそれは今私が言っているのではなく、日本の歴史が既に証明しているとも言えます。戦後官僚が決めた日本のルールのひとつ。東京一極集中政策で日本では専門目的が明らかな施設は東京以外では建てることが許されていません。例えば相撲にしても東京には国技館と言う相撲専門の競技場は造れますが、それ以外でそのような建物は造る事が”許されて”いません。その為、日本では100年前の大阪中央公会堂以降、MICEの精神にマッチされた建物はただの1件も造られていません。

本来80年代バブル時期は仕方がないとしても90年代の10年の間に、日本の変革をしなければならなかったのですが、日本国民はその間、畢竟何もしませんでした。その間にこれだけの規模と知恵を真の意味で牽引する才能や能力は衰退してしまったのではないかというのが、私の意見です。70年、大阪で万博が開催された後、大阪にあった才能豊かな人々が東京に流れてしまったというのは正しい味方でした。しかしそれから40~50年を経て、才能のあった人々は現役を引退してしまい、次の能力に欠ける世代が暗躍する時代になりました。それらの新世代には歴史的知識に裏付けられた教養も、現実的なアプローチのできる才能もないのかも知れません。

できなければ、できないと正直に言うのであれば、まだ可能性は残されていますが、現状のままではMICEを有効活用する為のIRを牽引できる能力と発想は望むべくもなく、既得権益者に牛耳られ、官僚組織の規制にガチガチにされた非効率なIRになってしまうのは、かなり現実味を帯びた予測になると言えるでしょう。

 

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