人種差別問題報道 正統派メディアの変節に憂う

メディアを中心に、アメリカではトランプ大統領のスキャンダル、日本では安倍首相の忖度問題が盛んです。しかしその論拠は希薄で、むしろ扇動としかとれないようなものでしょう。それでも半年以上、この話題を引きづっているのは、情報を受け取る側にメディアの情報を精査する能力が欠如している点も少なからずあるように思えます。変に左傾化している訳ではない一般の方の御意見でも”‘お友達ファースト’の安倍忖度内閣への愛想尽かし”とか”‘都民ファースト’の会が都議会選を制し、安倍内閣の支持率も急落して政治の流れは一変しつつある”などと書かれていて、御年そこそこにも関わらず、メディアの受け売りに終始しているのを見ると、逆に気恥ずかしくも感じます。どうも、私達日本人は、権威猛追主義と言うのか、虎の威を借る…的な意見が独歩する傾向が強いのかも知れません。

“トランプ大統領は人種差別主義者”だと言うけれど

先日のKKKを始めとする白人至上主義者の“反対派”に車が突っ込んだ事件の報道は、トランプ大統領が白人側を完全非難しなかったからだと言う論調に終始していて、特に日米中などで顕著です。トランプ大統領のブログでも”私が白人側を非難していることは報道されない”と言いながら、“誰も言わないから私が言うが…”と注釈が入ったうえで、反対派の過剰な暴力をも半ば非難している内容が書かれていました。こうなると、事実を伝えるメディア自体が意図的な混乱を招いていると言う見方も、あながち外れてはいないと思えます。そして私はこの報道を聞いてあるブログを思い出しましたが、まずは一般論から入りたいと思います。

自由や民主主義、啓蒙主義に対して、変節するのか

幾つかの例を挙げてみます。まず、“喧嘩両成敗”。白人至上主義は人種差別主義者だから両成敗はあり得ないのでしょうか? では“人種差別”って、だれが誰を差別するのか。確かにかつて、アメリカでは白人が黒人を差別していました。でも世界でみるとどうでしょう。ヨーロッパではナチスドイツだけでなく、昔からユダヤ人も差別の対象でした。大戦末期の“絶望の航海”事件が実例です。いや、世界で見ると様々な人種が別の様々な人種に差別されていますし、されてきました。それが、内紛や戦争になった例など枚挙に暇がないでしょう。またアラブの例を見るまでもなく、かつての差別者と被差別者はほぼ半世紀を越えると立場が逆転することなどいくらでも実例があります。このことから考えても、“人種差別主義”という言葉を単純に使っていては本質がつかめないのです。

ヴォルテールは普遍的ではなかったのか

かつてはフランスの哲学者で歴史家であるヴォルテールの「私は君の意見に賛成しない。しかし、君がそれを言う権利は命を懸けても守ろう」と言う考えが、メディアの理想と言われてきました。ドイツの革命家、ルクセンブルクは「自由とは常に思想と異にするものの為の自由である」と言い、支持されてきました。アメリカのチョムスキーに至っては「反吐がでるような思想に対しても、表現の自由が保障されなければ、本物の自由とは言えない」と言っていました。そうした政治思想と並行することでメディアは信頼されてきました。
かつて自由を標榜していたアメリカのメディアが、何の変節か、選挙で選ばれた、つまり民主主義で支持されたトランプ大統領の存在そのものに嫌悪感を示し、発言や憶測を一切認めず、自由も民主主義も関係なく、現職の大統領を葬り去ろうとしています。よその国のことだとは思いますが、かなり異様な臭いを感じます。

“ドイツのロルちゃん”に教わったヨーロッパ情勢

“ドイツのロルちゃん”と言うブログをご存知でしょうか。ブログの前にはYOUTUBEでの投稿もありましたので、ご存知の方も多いかと思います。最初は日本通のドイツ人の方で、当時は珍しかった外国人の眼から見た日本論を展開されていて、とても面白く拝見していました。また時折みられるヨーロッパの空気というようなものも新鮮で、ロンドンエコノミストやルモンドの特派員記事よりも正鵠を射たものも多くあったと覚えています。このロルちゃんですが、ある時点から少し雰囲気が変わってきました。それは今とは比較にならないくらいの少数の難民が流入してきたとき、自分達の血税を何故、あれだけ反社会的な勢力である難民に費やすのかという怒りでした。ロルちゃんを長く見てきた私は、あれほど知的で温和なロルちゃんが、採りようによっては民族主義的?ともとれる発言をされるのに違和感を感じましたが、その後の記事を長く拝見していると、それが払拭されるのを感じました。

少し“置き換えれば”理解できてくる民族問題

例えば、日本ではかつてのナチスドイツと同じように中国や韓国などの周辺諸国の人々を惨殺し、人権を踏みにじり、何十万人もの少女を性奴隷にしました、と聞くと、日本人はそんな馬鹿なことはあるまいと失笑するだけでしょうが、日本人でもそう信じている人は少なくありません。国営放送も日本を代表するメディアもそれを否定するどころか、暗に認める姿勢を緩めないのですから、諸外国からはそう見られてもおかしくはないでしょう。そんな日本では難民の収容数は欧米と比較にならないくらい僅かですから、もしドイツ並みに北朝鮮の難民や中国の難民を受け入れることになったら、どうなるでしょう。

ドイツが良い例ですが、難民といっても大人しくて、貧しい弱者とは限りません。豊かな国に入れば、そこで組織化され合法・非合法に関わらず利権に走り、当然そこに住むドイツ人への犯罪も常態化します。しかもその国が過去に付け込まれる”失態”をしていたなら、そうした行為も正当化する風も起こるというものです。日本では今でも“ちょっと怖い場所や時間帯”が増えてきていますが、数百万の”難民・移民”が流入してきたら、国家としての機能は遂行不可能となってくるでしょう。外国人が血税を浪費し、また助成金名目の不明金が乱発された上に、徒党を組んで犯罪を犯してきたら、どうなるでしょうか。日本は敗戦直後、警察機能を失った時期がありしたが、その間は日本人に対する暴行や殺人が頻繁に行われましたが、そんな雰囲気になって行くと考えると、今のドイツの状況が類推できます。

便利な“人種差別主義”と言う言葉の乱用で特権階級が生み出されて行く

しかし、それが問題化しないのは“人種差別”と言う言葉です。この魔法の言葉を使うと、レッテルが貼られることになりますので、皆思考停止状態に陥ります。そして為政者はお金を乱発し、現実は無視されて行き、平和に暮らしていた人々は無視されて行くのです。それは正に特権階級や権益者が生み出されて行くパターンとなって行きます。


“お前の意見は人種差別的だ”と言われたら、自分の何がどう差別主義なのか問い直せるだけの思考や知識はつけておく必要があります。“自由”や“平等”、“平和”などがついたら、その正体は別物だとみるだけの懐疑心くらいは持ちましょう。一旦特権階級や権益者が生まれたら、その権利はなくならないものです。

「あまりに情報に疎い日本人は、よいカモである」

この言葉は、ある外交官が親日的な国に赴任した時、相手から言われたと口述しているものです。冒頭に述べましたが、日本では、特に東京は情報鎖国で、ここに住んでいる人や、あと地方在住の高齢の方は、まともな情報に触れる事はまずありません。誤り偏った情報しか触れられないので、騙され放題と言うのがその方の感想でした。
先の人種差別と言うのも、皆が考えているほど、固定的な観念でもありませんし、政治的、メディア的圧力や暴力、数の力など考慮すべきファクターは多いものです。まして、これで“飯を食っている(そうとう豪華なディナーのようですが)”団体や個人が政治的圧力団体として存在することも忘れてはならないでしょう。これまでは最低限、米国のメディアの中の正論派がその防波堤となっていましたが、どうもそれも危うくなった今、アメリカを他山の石とみるには手遅れ感があると感じます。

私達は他者からの”意見”を受け売りするのではなく、自らの知恵で考えることをしなければ、そんな負のスパイラルに陥ることになることに、もっと留意しなければならないでしょう。

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