藤井聡太四段とランドセル

世界で活躍する現代の若者

藤井聡太四段の活躍が爽快ですね。私は将棋を指しませんが、チェスや碁などと共に“勝負師”の世界として君臨するものですから、14歳で有ろうと、15歳になろうと、“藤井君”とか“藤井少年”などと口にすることが憚られるような気がしています。今は“四段”とつけられているのですが、その内“名人”と呼ばれることになるのでしょう。
ところで、良くある話ですが、テニスの錦織選手が活躍するとテニスを始める少年が増え、松山選手がPGAツアーで優勝すればゴルフおじさんが子供や孫に手ほどきをするようになります。藤井四段も同じような動きが出ていますが、いずれも“世界で活躍できるようなスキルを身に付けてほしい”とか“個性的な人間に育ってほしい”という希望を口にされます。しかし“言うは易し、行うは難し”と言いますが、実際はほんとうにそう考えている方は少なく、むしろ子供の個性を謀殺している例がほとんどだと言えます。しかも自分は子供に対してそう考えているのだと信じているだけに、個性を抑え込んでいながら、何故個性的になれないのだと言うものですから、子供も混乱します。


世界で活躍できるスキルを身に付けるとか個性的な人間になるには、まず人と違った生き方をしなければできません。戦後の日本社会では、世間が、誰がなにを言おうとも、自分が好きな道を進むには、大変な覚悟と周りの不理解と闘わなくてはいけません。今の親の世代では、そのことの現実を体験したことがないので、“人と同じで、その中での優位性”を望みます。“人と違う世界に飛び込む”ことは自分が理解不可能なので中々できません。

ランドセルを持たせる理由

例えば親の世代に“子供が小学生になったら、ランドセルを買いますか”と聞くと、ほとんどが“ランドセルは日本の技術の集約だから、少々高くても良いものを持たせます”と答えます。“皆が同じランドセルを持つと言う発想は、ヒトラーの”国民学校“的なもので、決してオリジナリティを発展させるものではありません。それを戦後の日本の官僚が、規格大量生産社会を作るために利用したものと言う事は、今や常識となっています。皆が同じことをすることで安心する発想では決して独創的な子供は育ちません。むしろ皆がランドセルと持つのなら、自分の子供はスーパーのビニール袋で通わせるという親がいてもよいのです。


しかし、そのような判断には勇気と大胆な発想が必要となります。もちろんそれだけが全てだとは思いませんが、そこに何らかの疑問を感じることも大切だと言えるでしょう。

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