フェイク・ニュース戦争。世界の情報価値がゼロとなる日。

「こんなフィルム、誰が撮っていたのだ!」。トム・ハンクスが出演した映画「アポロ13」で、発射台から飛び立つ映像を見たNASAの技術師は、何の疑いもなくこう叫んだのだそうです。アポロ13号の発射。画面に向かって迫るように爆音が取り巻き、ロケットのボディからは氷のプレートが次々に剥がれ落ちて行きます。しかしこれは、当時のCGで全くゼロの状態から作り上げられたもので、今から20年以上前の作品です。

同じ頃、やはりトム・ハンクスが主演した「フォレストガンプ」では、60年代のニュース映像にハンクス演じるフォレストが何度も顔を出します。中にはJ.F.ケネディ大統領と謁見して、ハプニング的な会話も果たします。トム・ハンクスの顔が知れ渡っていなければ、やはり誰もが当時の映像だと信じていたのだと思います。トム・クランシーの小説には、ロシアのはぐれ組織が同じロシア軍をミサイル攻撃させ、ロシア側がそれをアメリカ軍の仕業を判断して反撃。核戦争の危機が起こる…などという筋書きがあり、その程度の発想はトム・クランシーでなくても、そこいらの中学生でもできる時代になっています。

飛躍的に進むデジタル技術と、低迷するメディアの倫理観

最近、よく聞かれる“フェイク・ニュース”の類もこの域をでません。声高に“(国に対して)あいつが悪い!”と叫んだ方が、実は仕掛けた側などと言うのは、中国や韓国、北朝鮮などのやり方をみても、ごく普通で、また“それは良くない”と庶民レベルで言ったとしても、外交や軍事ではこれまででもごくごく普通に繰り広げられてきた光景と言う事実は曲げようがありません。更に大きな問題なのは、本来真実を伝えるべきメディア側が、この手法を真似て自らの優位性を担保しようとするあまり、越えてはならない一線を平気で越えてしまうことです。勿論こんなことをしていては、その瞬間は良いのかも知れませんが、すぐに化けの皮が剥がれてしまう。そのあとには何が起きるかということです。時と共に技術は飛躍的な向上を見せますが、いつの時代も人が進めるべき倫理観に欠如があるのは世の常としか言いようがないのでしょうか。

アメリカのトランプ大統領に対する批判の風向きが変わった?!

アメリカのトランプ大統領やフィリピンのロドリゴ・ドゥテリテ大統領、日本の安倍首相などについては、これまで、メディア側が一方的に質の良くない、分かる人が見れば論外と判断せざるを得ない、フェイク・ニュースを流し続けていますし、某国のように先の戦争時に起きたとされる慰安婦事件を作り上げて、世界中に証拠に残るようなものを瀰漫させていては、今後真実が判明した時に、どうやって自らの行為を釈明するのか、信頼を回復できるのかなど、他人事ながら心配になります。そんな中、一方的に批判の対象となっていたアメリカのトランプ大統領のロシア疑惑という、訳の分からないものについて、最近大きな進展がありました。

この事件の根拠は、英国の政府諜報機関の元工作員クリス・スティールによって書かれた“スティール文書”だと言われてきました。その内容はトランプ氏がモスクワのホテルで乱交を行ったとか、クリントン候補の為の不当選挙操作をロシアと共謀して行った。トランプ選対幹部がロシアの政府関係者とチェコで密会して秘密協力を約束したというものです。これをネットメディアの“バズフィード”とかCNNテレビが大々的に報道したため、トランプ氏はその後の記者会見でCNNを“フェイク”と非難して、そのあとはメディアを信用せず、ツィッターで随時コメントを行うという前代未聞のやり方を取る事になったのはご存知の通りです。
しかし当初から、疑惑の発端となったスティール文書についての裏が取れない。トランプ氏がとったとされる行動も証明されず、またそのスティール文書自体、そもそもワシントンの政治関連の調査企業“フュージョンGPS”がスティール氏に依頼して作成した以外のことが分からない状態が続いていました。
ところが最近になって、下院情報委員会がこの“フュージョンGPS”の代表者グレン・シンプソン氏を召喚して尋問、調査した結果、スティール文書は昨年4月に、対立候補であったクリントン候補の選挙対策と民主党全国委員会に雇われたパーキンス・コール法律事務所から委託されて作成された、トランプ氏攻撃目的のものであったことが明らかになったと言われています。その報酬額は1100万ドル(12億5千万円)。この手のものとしては、破格の費用であったことが判明されて、米国ではその風向きがすっかり変わってしまっているようです。そもそも文書自体が民主党の政敵攻撃の目的で作成された虚偽文書の可能性が高まれば、それを根拠にトランプ大統領側を攻撃してきたアメリカメディア全体の信頼性が揺らぐことに繋がる一大事に繋がってきています。

そもそもメディアとは信頼に値するものかという疑問

こうなると報道を信用して行動してきた人々はメディアに対して、“こんな基本的(取材の信憑性の確認など)なことすらできないメディアの記事を信じることはできない”と感じても、何ら不思議はありません。中には高度な証拠として“写真”や“映像”があったとしても、20年以上前から脈々と…というより日々爆発的に進歩してきたデジタル技術の前には、それらすべてが“意図的な創作物”であるという逆疑惑が払拭できないという事態が避けられなくなってきます。
私は以前のブログで、“このことは昔からのメディアの本質である”として、100年ほど前に起こった“ツタンカーメンの呪い報道”に準えて説明(https://blog.reliance-consulting.jp/post-348/)しましたが、そうなると“真実を報道するメディア”という大前提も、“そんなものが本当にあったものなのか”と言う事の再認識に繋がって行くのだといえます。

私達が今、すべきはメディアの構造改革

国会や日本のメディアでは、ほぼ真実の姿が露呈しているにも関わらず、未だに“森友・加計学園問題”を追求などとやっていますし、同時に広島や沖縄で起こっている本当の姿などについては頰っ被りしていますから、ほんとうに国民、国家に必要な重要問題の議論には至りませんし、メディアが何を言っても“今のメディアの言う事だから、どうせ嘘だろう”と考えられてしまうとしたら、本末転倒になると言わざるを得ません。ましてや安倍首相が嫌いだから、トランプ大統領が、ドゥテルテ大統領が気に入らないからと言ってフェイク・ニュースを垂れ流しているだけでは、誰の利益にも繋がらないことになるでしょうし、真っ先にメディアの信頼が無くなる日が来ます。
今はまだ、アンケート調査では“メディアの報道を信用している”と答えるでしょうが、これも聞かれればそう答えるもので、信頼など過去の例を見れば”築くのには時間がかかるが、崩れるのは一夜”であることは一目瞭然です。


新聞やテレビのメディアの信頼性がが確実に低下している中、今では、その信頼性に対する疑問を呈する形となったインターネットの情報などにも、疑惑や信頼性の下落が始まっています。せっかく私達が20世紀後半に手にする事のできた情報ツールが、中身の空っぽの“張子の虎”化するのは大変残念だと感じます。「メディアの信頼性」。これを確立する具体的な仕組みを、私達は構築する必要があります。

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