陽は昇る 私的日録
日々の移ろい・感受した
ことを書き連ねました
新幹線の車中のこと。隣に座っていたスーツ姿の外国人と話す機会がありました。彼はドイツ人で1年前に日本企業に就職したらしく、日本語も堪能で、もしかして日本語の練習だったのかも知れませんが、日本人はみんな優しくて、食べ物はどれも美味しいとか、日本の四季はとても美しいとか絶賛してくれたので、総じて悪い気分ではありませんでした。いやそれ以上に、誇らしい気分にもなりました。
でも…。ちょっと腑に落ちなかったので聞いてみました。「あなたの国にも四季があると思うのだけど、日本の四季とはどう違うのか?」。すると、彼は自国の自然の美しさや、四季折々の風情と言ったことを滔々と語り始めました。ドイツの食べ物も、人も、日本に劣らず素晴らしいものだと感じているのが伝わってきました。ありゃ、それを聞くと、それまでの日本万歳的な気分は霧消し、なんだそれじゃあ、日本もドイツも同じじゃないかと気分が萎んでしまいました。
それで思い出したのは、以前、中国のインテリの方と話す機会が会った時に、彼が言っていたことです。「ほとんどの世界の国々では、外敵による大殺戮や、国規模の大飢餓の経験がある。日本にも時折飢餓もあったし、信長の一向宗徒の殺戮などもあっただろうが、中華民族のそれに比べれば想像できないほど恵まれた環境だ。なにより、日本の歴史は日本民族の歴史であり、日本人の歴史は現在の日本人の歴史と合致する。このような国は世界でも極めて希で、このような歴史や環境を有する国を自分は知らない」と言うような内容でした。
そう言えば、スペインの方だと記憶していますが、「今のスペインの歴史はローマ帝国滅亡の後から始まった」というようなことを言っていたのを思い出します。つまり民族の歴史と国の歴史は一致しない。平たく言えば先祖代々からの家に住んでいるのと、同じ家でも借家に引っ越してきた違いなのかも知れません。
先のドイツ人が、日本のベタ誉めしてくれたのは、氏のリップサービスの一面があると思います。例えば「飢餓」に相当する言葉のないタイなども食料に困った歴史的経験はないと聞きますし、それを象徴するようにアジアを巡っていると、レストランなどでウェイトレスさんが警戒心なく笑顔で迎えてくれるのは日本とタイだけなのをみても、そんな国はないことはないのですが、日本人にはこうした国が持つ甘さも人一倍兼ね備えているようにも思えます。
リップサービスの例をみても分かるように、日本人は相手の善意を信頼してしまいます。これは日本の恵まれた歴史的環境の成せる業でしょうが、これからの時代、何らかの予備知識を持っておき、システマティックに善意と事実を分けて考える発想を持つことが重要な時期だと思われます。
隣席のドイツ人は先に下りましたが、別れ際、実に敬愛に満ちた笑顔で握手をしました。まるで君こそ真の友だと言わんばかりの。お互い名前すら知り合ってはいませんでした。日本人のDNAには、たまらないほどのやさしさが刷り込まれています。そして他社の賛辞を真に受ける甘さもあります。しかし世界の他の国々が持っている屈辱や困難を乗り越えるようなDNAは、まだ未熟であるように思えます。理性と意識によって、これらを蓄積する必要がある時代になっているのだと痛感させられました。