団塊の世代の次の位置づけ
60歳代の方となると、団塊の世代の次にあたります。戦後のベビーブーマーが1947年から49年生まれと想定して現在68歳~70歳になると、その世代からは約10年の開きがあります。団塊の世代以上は日本社会を築き上げる上の世代が戦争で大幅に減少した為、本来ならば蓋の作用をする世代がない、ある意味美味しい世代です。まだ企画大量生産社会が走り出す直前にそれに適合した学校教育を受ける立場でしたので、その果実をしっかり手にすることができましたから、まだある程度の独創性は許容されていました。しかしそれから10年の開きは、完全に規格大量生産社会への順応を強制された世代です。だからそれ以外の価値観はもともと理解できない環境で育ちました。ですので、今さら新しい価値観とか社会観を受け入れることはかなり困難なことでもあります。
新たな価値観を持つ子供世代。夫専属から脱皮した主婦層
彼らの子供は70年前半に社会に育ちます。70年の大阪万博で日本には世界と言う新しい価値観が具象化され、徐々に規格大量生産適合社会から逸脱するようになって行きます。その後、子供達の世代には個性が大切だとの新しい考えが浸透し、様々な価値観を求めて行きましたから、当然硬直した感のある父親の世代とは相容れなくなるのは当然です。子供世代からは父親の世代は、画一的で色のない生活だけの人生を送る世代だと認識されるようになりました。
また家電などの電化製品の充実や、様々な娯楽や買い物場所の増大などで、多くの情報を手にした主婦層と仕事一辺倒の夫との間の、幸せ格差が広がり、ここにも温度差が生まれました。まあ定年までは面倒は見るけれども、定年した後は自分の事は自分でしてほしいと言う、“夫専属の主婦業”からの脱皮が不通となりました。確かにそうした余暇や生活に関する収入は誰が稼いでいるのだと言う夫の叫びは分かりますが、それまで仕事に感けていれば、近所づきあいや家庭内のことは全て主婦に任せてもよいのだと言う“何もできないサラリーマン層”が、稼げなくなった時に、どのような環境に陥るのかと言う事に無関心でいたのだから、そこは当然の帰結と言えばそうなのかも知れません。
どのようにすれば定年退職後の憂鬱を乗り越えられるか
本来、世間に精通しているはずの熟年サラリーマンは、規格大量生産社会にあまりに上手く適合してしまった為、情報の採り方も画一的になり、誰もがメディアの受け売りとなって行きました。これは情報過多の社会では最も軽蔑されるやり方です。だから独断と偏見と受け売りに終始していては、だれもその声に耳を傾けてくれるはずもなく、ますます疎外感は高まります。すわ“ボランティア”と言っても、時間に不正確で、体力に陰りが見え始めた世代はあてにされることも少なく、最初盛んであった高齢者ボランティアは、今ではあてにされないジャンルになったのも同様の理由だと言えます。
勿論これらは時代のタイミングでもあり、誰もにその責任があるとは言い難い点はあります。自分達の時代はこうあって然るべき時代だったのだと正論を並べても、疎外感が軽減される訳ではありません。60歳になったら“新社会人”となったつもりで、人生を再スタートさせるだけの気力や体力を、少し早いうちから養っておかなければならないし、日数の増えた休日は可能な限り家庭やコミュニティに時間を割く努力も必要となって行きます。
追々、その後の世代は、こうした社会から離脱した環境で育ってきますので、今の60歳代の方が陥る構造的な環境による苦労はそもそもしなくてもよい世代になると思います。そうなると益々、疎外感が高まって行くことは必至だと言えます。原因は個々によって違う事は先にも述べましたが、人に助けを求めるのは決して恥ずかしいことではありませんので、レライアンスにもお声をかけて頂ければと思います。